11月の御言葉

これらの人たちはみな、信仰をいだいて死んだ。 まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、 そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。         (ヘブライ人への手紙11章13節・口語訳)

地上の旅人  

ヘブライ人への手紙11章1節には、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と語っています。続いて著者は、アブラハムなど旧約聖書の信仰に生きた人々を紹介して、彼ら、この地上では旅人であり、寄留者として、神さまを仰いで、神さまの約束、その恵みを確信して歩んだのであると証言しています(「旅人、寄留者」というところを新共同訳聖書では、「よそ者、仮住まいの者」と訳しています)。  

私たちの人生は、よく「旅」にたとえられます。芭蕉の句に、「旅人と我が名呼ばれん初しぐれ」、「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」というのがあります。人生が旅であることをうたっているのでしょう。なお、「旅に病んで」というのは、奧喜代治兄が好きな句でした。晩秋に向かうこれからの季節、私は夕暮れ時などには、非常に感傷的になることがあります。それは、「旅」としての人生を感じるからなのだろうと思います。  旅人、寄留者というのは、定住するところを持たない人のことです。腰を落ち着けるところのない者のことです。私たちの人生の中に突然に襲ってくるような虚しさとか不安感は、この「旅人」としての歩みのゆえであるといえるのではないでしょうか。しかし、落ち着けるところのない旅であっても、どこから出て来て、どこへ行くのかを知り、信頼できる確かな道連れがあるならば、不安定なその旅もまた、確かな足取りで歩むことができるのではないかと思います。  

アブラハムは、75歳の時、故郷を後にして、見知らぬところに旅立ちました(旧約聖書『創世記』12章)。彼は、星降る静寂の中で、確かな神さまの声を聞いて、妻サラと甥のロト、そして使用人たちを伴って旅立ちました。彼は、失敗を重ねながらではありましたが、見知らぬところへと、神さまに導かれて歩み続けました。神さまこそが、彼らの旅の確かな道連れでした。  私たちの人生の旅の道連れ、それは、神の御子、救い主イエス・キリストご自身です。私たちの罪のために十字架を負ってくださったイエス・キリストは、十字架の死の後、復活して、今も生きて、私たちと共に歩んでくださる方です。遠藤周作の小説に『死海のほとり』というのがあります。そのテーマは、「同伴者イエス」です。ある批評家は、「同伴者イエスというのはあまりにも感傷的すぎはしないか」と言っていましたが、私は、そうは思いません。私たちの人生には、信頼できる確かな道連れが必要なのです。そうでなければ、私などは、晩秋の夕暮れの虚しさの中にくずおれてしまいます。人生という「旅」の夕暮れの中においても、復活し、今も生きておられるイエス・キリストは、私たちの死のかなたにまで、共に歩んでくださる方なのです。それゆえ、私もまた、失敗ばかりの歩みではありましたが、神さまに賛美と感謝をささげる歩みを続けてくることができました。  

桔梗が丘ルーテル教会は、イエス・キリストが道連れとなってくださった人たちの集まりです。それは、共に、神さまを礼拝し、賛美する仲間です。その仲間たちもまた、大切な旅の道連れです。私たちは決してひとりぽっちではありません。互いに祈り合い、支え合う仲間です。そして、永遠の同伴者、イエス・キリストが、私たちのそれぞれの人生の旅に伴い、導いてくださるのです。       (牧師 屼ノ下照光)


10月の御言葉

見よ、わたしはあなたを わたしの手のひらに刻みつける。                     (イザヤ書49章16節)

愛されているから  

私たちにとって、家族は大切な拠り所です。一番身近な存在であり、心の拠り所です。

しかし、そうであるがゆえに、求めている愛を得られない時、傷つき、また傷つけてしまいます。

家族をめぐる、悲しいニュースは後を絶ちません。摘発された殺人事件のうち、55%が親族間で起こっているそうです。特に、幼子が親によって手に掛けられる事件は、胸がつぶれそうです。

子どもは親にすがるしかありません。自分の命、生活のすべてが親にかかっています。虐待するような酷い親であっても、幼子は、自分を受け入れてほしい、愛してほしいと親にすがり、親の求めになんとか応えようと必死です。

親は親で、やはり、子どもが大切でしょう。けれども、人の愛は、時として自己愛の延長であったり、歪んだり、過剰になったりして、健全な愛から外れてしまいます。

 

イザヤ書49章に次のような言葉があります。

シオンは言う。主はわたしを見捨てられた わたしの主はわたしを忘れられた、と。

女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。

母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。

たとえ、女たちが忘れようとも わたしがあなたを忘れることは決してない。

見よ、わたしはあなたを わたしの手のひらに刻みつける。

神さまが、私たちをお忘れになることはありません。

乳飲み子を母が忘れることがないように、いや、たとえ母親が忘れることがあったとしても、主が私たちをお忘れになることは決してないのです。『手のひらに刻みつける』とありますが、原語では、手のひらは複数形となっています。私たちは、神さまの両手に刻みつけられているのです。神さまは、痛みをもっても、私たちを決して忘れることのないようにしてくださるのです。

どのような苦難に遭っても、私たちは神さまに見捨てられているのではありません。そのことは、イエスさまの十字架に顕かです。神さまは、ご自分の御子をさえ、惜しまずに死に渡されたほどに、私たちを愛してくださっているのです。その愛を本当に知るとき、私たちはもはや、愛に飢え渇いた者から、愛する者、愛を注ぐ者へと変えられるでしょう。

いつも神さまの愛を求めましょう。主の愛に満たされて、一番身近な家族をまず愛しましょう。 そこから、また愛が生まれるでしょう。

(補教師 北山 琢)


9月の御言葉

フィリポが走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえたの で、
「読んでいることがお分かりになりますか」と言った。
宦官は、「手 引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言い、
馬車に 乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。
  
              (使徒言行録 8章30〜31節)

8月18日、敬愛する岩井代三牧師がご召天されました。86歳でした。20日に葬送前夜式、21日に葬送式が、南大阪ルーテル教会で執り行われました。私が、司式をさせていただきました。岩井代三先生は、近畿福音ルーテル教会の牧師としてご奉仕くださいました。特に、ルーテル・アワーのラジオ牧師として、35年間ご奉仕くださいました。
 先生の葬儀の準備をしながら、私はさまざまなことを思い起こしていました。ちょうど50年前の夏、私は、南大阪ルーテル教会を訪ねました。それが、岩井先生との最初の出会いでした。人と人との出会いの不思議さということについては、多くの人たちが語っていることですが、50年前の、岩井代三先生との出会いもまた、たいへん不思議であり、私には、神さまが、備えてくださった出会いであったとしか言いようのない、大きなできごとでした。私が18歳、岩井代三先生は、36歳の青年牧師でした。
当時、日曜日に仕事をしていた私は、月曜日に先生のご都合をうかがいながら、毎週のように教会に通いました。そして、その年の暮れまで、私は先生を独り占めするようにして、先生から聖書とキリスト教教理の指導をいただきました。翌年の1970年の元旦礼拝の中で洗礼を授けていただきました。その後も個人的な指導をいただき、また、岩井先生がテープによる月曜礼拝を準備してくださったので、月曜日に教会に通いながら、教会生活を続けることができました。2年後には、先生に勧められて、聖書学院、伝道実習生、神学校、牧師へと導かれました。その歩みの中で、いつも、先生がやさしく指導し、導いてくださったことを思い起こします。
使徒言行録 8章には、迫害によって散らされたフィリポが、エルサレムの神殿の礼拝から帰る途中のエチオピアの宦官に、イエス・キリストを宣べ伝えた物語が記されています。聖書を読んでいた宦官にフィリポが近づいて、「読んでいることがお分かりになりますか」と尋ねました。すると、宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と答え、フィリポは彼の馬車に乗り込んで、イザヤ書のみ言葉から、救い主イエスさまについて語りました。この物語の結びは次のようになっています。
「道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。『ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか』。そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた」(使徒言行録 8章36〜38節)。
主イエス・キリストの救いの恵みの喜びをいただくためには、「手引きしてくれる人」が必要です。私にとって、岩井代三先生は、確かに、「手引きしてくれる人」でした。私たちの周囲にも、「手引きしてくれる人」を必要としている人たちは多くおられるのではないでしょうか。
そのような人たちに、どうぞ、イエスさまのことを伝えてください。
また、イエス・キリストの教会にお誘いください。
                                                                                                                                              (牧師 屼ノ下照光)

7月の御言葉

青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。
苦しみの日々が来ないうちに。
「年を重ねることに喜びはない」
と言う年齢にならないうちに。
(コヘレトの言葉 12章1節) 

青春の日々に

 7月28日(日)〜29日(月)に、私たちの教会が所属している近畿福音ルーテル教会三重地区合同夏の子どもキャンプが、志摩市大王町の志摩キリスト教会で開催されます。小学生が対象ですが、お子さまやお孫さんたちのご参加はいかがでしょうか。どうぞ、ご案内ください。ご関心ある方は、教会にあるポスターやチラシをご覧ください。
 このようなキャンプで、子どもたちが神さまに出会い、新しいお友だちと出会うことができたなら、それはどんなにすばらしいことかと思います。

 私は、50年前に聖書が語る神さま、イエス・キリストに出会いました。否、イエス・キリストが私に出会ってくださり、私を捕らえ、私をしっかりと抱きとめてくださいました。そのころ、17歳の私は、青春の真ん中にいましたが、自分自身が何者であるかもわからず、生きる目的も知らず、夢も希望もなく、悶々とした中で、どうにでもなれといった投げやりな思いで、すねたように日々を送っていました。                                                                                                                               そんな時、イエスさまが私に出会ってくださり、私が何者であるかを、おぼろげながらも知らされました。それは、この私は、天と地を創造された神さまによって造られ、命を与えられ、その方に深く愛され、大切にされている存在であるということでした。おぼろげではありましたが、深い闇の中にいたような私にはそれで十分でした。それが、私の信仰の歩みの始まりであり、それによって今日まで支えら
「神は、その独り子(ヒトリゴ・すなわちイエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3章16節)と聖書に語られているように、独り子(ヒトリゴ)イエスさまを十字架につけてしまわれるほどの圧倒的な愛で、神さまはこの私を包み込んでくださいました。
 「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」と聖書に語られていますが、青春の日々の中で、この愛の神さまに出会ったこと、否、神さまがこの私と出会ってくださった恵みを、深く感謝しています。そして、私は、この方の愛の中でこれからの生涯も導かれ、さらには、死のかなたにおいても、この方の愛の中に包まれるという希望を抱いています。                             牧師 屼ノ下照光

                                                                                                                          

6月の御言葉


5月の御言葉

女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。
母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。
たとえ、女たちが忘れようとも
わたしがあなたを忘れることは決してない。

           (イザヤ書 49章15節)

母の日                   牧師:屼ノ下照光
5月12日(日)は、桔梗が丘ルーテル教会のバザー「ルーテル・マルシェ」です。お友だち、近所の方々を誘って教会においでください。
5月第2日曜日のこの日は「母の日」です。「母の日」は、1908年、アメリカの教会で始まりました。ウェストヴァージニア州にアンナ・マリア・リーヴス・ジャーヴィスという女性がいました。彼女は教会学校で奉仕しながら、すべての母親を讃える特別な日の制定を望みながら亡くなりました。彼女の娘アンナ(母親と同名)は、母親の遺志を継いで地道な運動を重ね、1908年5月10日に、教会において「すべての母親に感謝する礼拝」が行なわれました。この日は、彼女の母親の命日にいちばん近い日曜日でした。娘アンナは、この礼拝に出席する人たちのために500本の白いカーネーションを用意しました。それは、母親の好きな花でした。それは、母親の愛の美しさ、純粋さ、忍耐強さを象徴しているとされています。1914年には、アメリカの議会において、5月第二日曜日を「母の日」とすることが決められました。ちなみに、日本でのはじめての「母の日」は、1922年(12年)です。
ある牧師さんがこのように語っていました。
「聖書には、『右の頬を打たれたら、左の頬も向けなさい』とか、『下着を取ろうとする者には上着も取らせなさい』という、よく知られた主イエスの教えがあります。これらの教えを守れる人はだれもいない。いるとすれば、それは母親だけである」。
また、他の牧師さんは、自分のお母さんについて次のように語っています。彼のお母さんは終戦後の食料不足の時、自分は食べないで彼と妹さんに食べさせて亡くなってしまわれたそうです。
「そのようにして、母が亡くなったことは、ずっと後に、母の友人から聞いたことでしたが、それを聞いた時、わたしはこう思いました。『ああそうか、母ちゃんは、子どもはまた産めばいいと言って自分が助かってもよかったのに、そうしないで死んでくれたんだ。それで、おれが生きたんだな。この命はかあちゃんのおかげなんだ』。わたしはいつまでもこのことを忘れません」。
食べるものも食べないで子どもに食べさせるとか、夜中に一睡もすることなく、病気の子供を看病するといったお母さんの姿を、私たちも見てきたのではないでしょうか。私自身も母親を亡くしてからずいぶんと年月を経ましたが、母親を思い起こすと、胸が熱くなります。私は、15歳の時からずっと母親と離れて歩んできましたが、それでも、母親の優しさや温かさ、そして、ほろ苦い思い出など、いくらでも思い起こすことができます。
イザヤ書49章15節のみ言葉に、私はいつも深い感動を覚えます。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか」。母親が我が子を忘れるなどあり得ないことだと語られています。そして、主なる神さまは、続いて、「たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない」と語っておられます。
 『母の日』にあたり、それぞれの母親への感謝をあらわしたいと思います。そして、母親の愛にもまさるまことの愛をもって、大切な母親を与えてくださった主なる神さまに、深い感謝と賛美をあらわしたいと思います。


4月の御言葉

子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。
だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに
見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。

                    ルカによる福音書15章31,32節



すべての人を祝宴に招く
 ある人に二人の息子がありました。弟の要求に応じて、父親は遺産を二人に生前分与してやりました。それを手にした弟は家を飛び出し、遠い国へ旅立ち、放蕩の限りを尽くして全財産を使い果たしてしまいました。ひどい飢饉が起こって、食べる物に窮し、頼った人には禁忌である豚の世話をさせられますが、豚のエサすら口にすることが出来ませんでした。彼は我に返って、父のところに帰って罪を告白し、雇人として養ってもらおうとします。息子と呼ばれる資格もないのだから、と。
 ところが、父親は遠く離れたところで早くも息子を見つけ、憐れに思って駆け寄って抱きしめ、接吻しました。上等の服、指輪、履物を着させ、肥えた子牛を屠って祝宴を始めました。畑から帰った兄は、その知らせを聞いて立腹し、家に入ろうともしません。すると、父親は、外に出てきて、なだめるのです。兄は、何年もまじめに父に仕え、言いつけも守ってきたのに、友達との宴会に子山羊一匹すらもらえなかった、それなのに、身上を食いつぶした弟には、肥えた子牛を屠ってもてなすのか、と怒りをぶつけます。それに対する父親の言葉が、冒頭の御言葉です。有名な『放蕩息子』のたとえです。

 私たちは、神さまのもとで生きる素晴らしさがわかりません。自分の人生は自分のものだ。誰にも束縛されず、好き勝手に生きていきたい。財産さえあれば、それでいい。そんな風に思います。しかし、その行き着くところは滅びです。何もかも失っても、この弟のように、父なる神さまのもとに帰ろうと思うことが出来れば、幸いです。
  神さまは、息子の帰還を今か、今かと待っていてくださいます。『憐れに思う』とは、神さまにしか使われない、「腸のちぎれるような思いに駆られる」という言葉です。それほどまでに思って駆け寄って抱きしめ、御国の祝宴に与らせてくださるのです。
 ところが、兄の方は、弟に嫉妬し、弟とも認めず、祝宴に出ようともしません。放蕩の限りを尽くした弟を、父が愛情たっぷりに受け入れ、もてなすことに腹を立てます。弟のことを、『あなたのあの息子』と皮肉な呼び方をし、批判します。自分はずっと父に『仕えている』と言うとき、『奴隷として仕える』という言葉を使っています。実は兄も、父のもとで生きることを喜んでいないのです。その素晴らしさが解っていないのです。嫌だけれども、我慢して従っているのだ、それなのに、そんな自分には何の報いもなく、放蕩息子の方に愛を注ぐのか、と言うのです。
 
 イエスさまは、ファリサイ派や律法学者たちに向かって、このたとえを話されました。彼らは、イエスさまが、御許に来て話を聞こうとする徴税人や罪人を受け入れ、食事も共にされたことが不満だったのです。ファリサイ派や律法学者たちが兄、徴税人や罪人が弟です。父なる神さまは、弟だけでなく、兄のことも慈しんでおられます。僻んで家に入らない兄のもとへ行き、なだめる。『なだめる』というのは、そばに呼び寄せるというのが原義です。そこから慰め、励まし、諭すという意味に広がります。この言葉の名詞が助け手、慰め主という言葉で、神さま、御子イエスさま、ご聖霊のことを言い表します。

 神さまは、すべての人が御許に帰り、救われ、御国の祝宴に共に与ることを望んでおられるのです。放蕩している者も、自分を正しいと思っている者も、実は自分勝手な歩み、自己中心的な歩みをしているという意味では同じです。しかし、神さまは、どちらであっても祝宴に招いておられるのです。 
 神さまは、ご自分から離れて放蕩している私たちを、また、自分を正しいと思って人を見下す私たちを、自分勝手な滅びの道から、何とか御そばに引き寄せ、生きるようにと望まれました。大切な御子イエスさまを身代わりにするほどまでに、私たちを愛してくださいました。イエスさまを十字架に架けて殺し、そして復活させることによって、私たちが罪から救われ、御許に帰って生きる道を開かれたのです。
 イースター、復活祭は、御国の祝宴です。イエスさまが復活されたことを感謝し、お祝いすることは、私たちが罪と死から救われ、イエスさまの命に与る喜びです。実は、神さまご自身が、私たち放蕩息子の帰還を心から喜び、お祝いしてくださる、その祝宴に与ることなのです。この喜びを、多くの方と共に味わいたいと願っています。
                              (補教師:北山 琢)

3月の御言葉

悲しむ人々は、幸いである、
 その人たちは慰められる。
   (マタイによる福音書 5章 4節)

慰 め                   牧師:屼ノ下照光
私が担当している松阪ルーテル教会では、月一回、「詩画と聖書に親しむ会」が開催されています。毎回、星野富弘さんの詩画の一編を選んで鑑賞し、参加者が互いに感想などを述べ合い、また、聖書のみ言葉を聞いています。
今年、2月の「詩画と聖書に親しむ会」では、クリスマスローズのきれいな絵にそえて、次のような詩がありました。
      悲しい時に
      悲しめる 心を持っている
      あふれ出る 涙がある
      なんという 慰めだろう
クリスマスローズの花言葉のひとつに、「慰め」があります。この花言葉を知って、星野さんがクリスマスローズの絵に、なぜこのような詩をそえられたかが納得できました。
私は、この詩に触れて、イエスさまが語られたみ言葉を思い起こしました。
「悲しむ人々は、幸いである、
         その人たちは慰められる」 (マタイによる福音書 5章 4節)
私たちは、生きている中で、さまざまな悲しみや嘆きを経験します。そのような「悲しむ者」は幸いであるとイエスさまは語っておられます。たいへん不思議な言葉です。「慰める」と訳されているギリシア語「パラカレオー」という言葉には、「招く」、「呼び寄せる」という意味があります。悲しむ人々こそが、神さまに呼び寄せられ、招き入れられて、包み込まれるというような印象の言葉ではないでしょうか。「悲しむ」というギリシア語「ペンソウ」という言葉には、「嘆く」、「死を悼む」という意味もあります。愛する者の死は、悲しみの極みです。その悲しみの極みの中にある人々にイエスさまは、「悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる」と語っておられます。ある女性のご召天50日の記念の祈りの時、私は、ご遺族の方々にこのイエスさまのみ言葉を紹介して、「不思議な言葉ですが、ほんとうに深く悲しむところでしか得られない慰めがあるのではないかと思います」とお話させていただきました。愛する者の死は、確かに悲しみの極みですが、キリストの復活に与る信仰者は、死のかなたにも、キリストと共に永遠に生きるという希望が与えられています。その希望のゆえに、私たちは、愛する人との別れにおいて、深く深く悲しみ、涙を流してよいのです。その悲しみの極みにおいてこそ、主イエス・キリストは、悲しむ者を、そのふところに呼び寄せ、しっかりと抱きとめてくださるのです。
星野富弘さんの、このクリスマスローズに寄せた詩は、悲しみや涙について、私たちの心を新たに開かせてくれる言葉のように思いました。「悲しむことができる」、「涙をながすことができる」そのことこそが慰めであると語られています。私は、「悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる」と語られたイエスさまの愛の御心を、しっかりととらえておられる星野さんに、深い感動をおぼえました。私自身、星野さんのこの詩に触れて、あらためて、イエスさまのみ言葉の深みに触れる思いがしました。この詩に触れることができたことを感謝しています。

2月の御言葉

 「私の目には,あなたは高価で尊い」   イザヤ書43章4節

 すばらしいキミへ
 スフィンクスの有名な謎かけに、
「朝は4本足、昼は2本足、夜になると3本足になるものは何か」というものがあります。
 通りかかる人に謎をかけ、正解できなかった者は食べてしまったということです。
オイディプスが、「それは人間だ。赤ん坊の時は、はいはいをするから4本足、成長すると2本足で歩き、老年になると杖をつくので3本足だ」と解き、スフィンクスを退治したという神話です。
 私たちは、自分自身に対して、どんなイメージを持っているでしょう。自分の足で立ち、思うところに自由に行き、なんでも自分の力でなすことが出来る。それこそが本来の自分なのでしょうか。親や大人に頼らなければ何も出来なかった赤ん坊の頃はどうでしょう。また、年を重ねて、今まで出来たことがだんだん出来なくなれば、もはや自分ではなくなるのでしょうか。
 あるいは、様々な不自由さを抱えて、出来ないことが多い人のことを憐れみ、自分はそうなりたくないと思うでしょうか。

『すばらしいキミへ』という大好きな讃美歌があります。

  人に何を言われても だれかに無視されても   それでも キミはすばらしい
  自分を飾らなくても  人の目を引かなくても   それでも キミはすばらしい
  キミが生まれる前から キミをつくられた方が
   『キミはすばらしい、すばらしい』と言われたから

  いつも頑張れなくても  何度も失敗しても それでもキミはすばらしい
  心が疲れ果てても  自分がイヤになっても それでもキミはすばらしい
  キミが生まれる前から キミをつくられた方が
   『キミはすばらしい、すばらしい』と言われたから

  たとえいつの日かキミが 何も出来なくなっても それでも キミはすばらしい

 今年も総会を迎え、私たちの教会はまた新たな一歩を踏み出します。神さまは、私たちをかけがえのないものとしてこの世にあらしめ、イエスさまを身代わりにされるほどまでに愛してくださいました。私たちが何か出来るからではなく、何も出来なくても、私たちの存在自体を、変わらず愛し続けてくださいます。その神さまの愛を受けて、お互いの存在を大切にする教会として、今年も歩んでいきたいと思います。 (補教師:北山 琢)

 



1月の御言葉

初めからのことを思い出すな。
昔のことを思いめぐらすな。
見よ、新しいことをわたしは行なう。
今や、それは芽生えている。
あなたたちはそれを悟らないのか。
わたしは荒れ野に道を敷き
砂漠に大河を流れさせる。
 
     (イザヤ書 43章 18〜19節)


何かが起ころうとしている
 みなさん、私たちの主の年、2019年の新年、あけましておめでとうございます。
 この新しい年、主なる神さまが、私たちの教会とその交わりを豊かに祝福してくださるよう、お祈りいたします。
昨年秋から新年にかけて、桔梗が丘ルーテル教会では、大きな変化の時となりました。北山琢先生は、10月1日付でこの教会の補教師に就任されました。11月23日には結婚式を挙げられ、12月にはめぐみ姉と共に牧師館に移られました。私、屼ノ下牧師は、11月1日付で四日市ルーテル教会牧師も担当することになり、11月19日には四日市ルーテル教会の牧師館に引っ越ししました。また、2010年10月から私たちの教会でご奉仕くださった栗かおり先生は、この1月1日付で帝犹灰襦璽謄覿飢颪療粗算佞暴任されました。今後、住居も帝塚山教会に移し、帝塚山教会を中心に大阪地区でご奉仕されることになります。先生の長年のご奉仕に深い感謝をおぼえます。そのような訳で、この教会の働き、牧会は、北山琢補教師が中心になって担ってくださいます。栗かおり先生の新しいお働き、北山琢先生のご家庭とお働きに、主なる神さまの大いなる祝福が注がれますよう、お祈りください。
 大きな変化に、私たちは不安や戸惑いをおぼえることがあります。しかし、一方で変化は、期待や希望をももたらしてくれます。私たちの教会の今回のこの大きな変化を、あらたの希望のチャンスととらえたいと思います。
 イザヤ書40章以下には、バビロン捕囚という大きな苦しみを経験した民に、捕囚からの解放のメッセージが告げられ、新しい時代の到来が語られています。50年以上も、異国の地で捕囚として歩み、疲れ切り、神さまに見捨てられたと絶望していた人々に、主なる神さまは、預言者をとおして、「見よ、新しいことをわたしは行なう。今や、それは芽生えている」と語りかけてくださいました。
私たちのこの教会に、今、新しい何かが起ころうとしています。主なる神さまが、この教会に、新しいことをなそうとしておられます。神さまが備えてくださる希望をいただき、神さまに期待して、この新しい年の歩みを始めましょう。(牧師:屼ノ下照光)


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    桔梗が丘ルーテル教会

    (近畿福音ルーテル桔梗が丘教会)
    牧師 : 屼ノ下 照光
       〈はげのした てるみつ〉

    神の栄光をたたえて生きる

    桔梗が丘ルーテル教会
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