12月の御言葉

そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録せよとの勅令が出た。‥‥‥
ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めてに子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。     (ルカによる福音書 2章 1節、4〜7節)


               貧しさを負う救い主 
クリスマスおめでとうございます。
神の言葉、聖書が伝えるクリスマスの出来事は次のとおりです。皇帝アウグストゥス(BC27〜AD14在位)の支配のもとでローマ帝国全土で人口調査が行われました。皇帝アウグストゥスは、紀元前31年にアントニウスとムクレオパトラの連合軍を破って、最初のローマ皇帝となりました。この人口調査は、徴税と徴兵のためでした。当時ユダヤはローマの属国であり、人々は自分の生まれ故郷で登録しなければなりませんでした。
 若いヨセフとマリア(17,8歳と13〜15歳)は、ガリラヤのナザレからユダヤのベツレヘムまでの140劼らいのところを旅しなければなりませんでした。身重のマリアにとっては非常に厳しいものでした。ここに、権力者の都合によって振り回される民衆の姿を見ます。長い旅の末にベツレヘムに着いた彼らには、疲れた体を休める場所もなく。粗末な家畜小屋で夜露をしのがなければなりませんでした。そこでマリアは赤ちゃんを産みました。神の独り子の誕生です。
 聖書は、貧しく、みすぼらしい中で神の御子が誕生したことを報告しています。ここには本来、きらびやかであたたかな宮殿で生まれるべき方が、自らを低くして貧しい誕生をされたということが語られているのではありません。神の御子の誕生は、神さまがどんなに私たち人間を愛し、大切にしてくださっているかということの現れです。聖書が語る神の愛は、力ある者、富や権力を持てる者が、テレビ・ドラマの水戸黄門のように身をやつして民衆の中に入ってお情けを与えるなどといったものとはまったく違うのです。神さまがご自身の「愛」を現そうとされたとき、このような姿にならざるを得なかったということなのです。
 ここには、力をもって抑えつけたり脅したりして人を従わせようとする姿勢は見られません。抑えつけたり脅したりするのは決して「愛」ではありません。当時、ローマ皇帝は、その強大な権力のゆえに「神」とあがめられました。彼は、強大な軍事力と富とによって人々を抑えつけ、自ら神のようにふるまいました。しかし、まことの神さまは、貧しさとみすぼらしさの中に、ご自身の「愛」を現されました。神の独り子イエス・キリストは貧しい家畜小屋での誕生から惨めな十字架の死にいたるまで、一貫して神の愛を語り、その愛を注ぎ続けてくださいました。
 私たちは、それぞれに自分自身を世界の中心にしようとする「内なる帝国」を持っています。自らその帝国の皇帝になろうとします。その内なる帝国、エゴイズムを聖書は「罪」と呼びます
そして、それが私たちを苦しめています。そこでは、互いに尊敬し合い、感謝し合い、信頼し合い、赦し合い、助け合い、励まし合い、支え合い、喜び合うという「愛と平和」は失われてしまっています。今日の大きな問題、幼児虐待、いじめ、ドメスティックバイオレンス、パワーハラスメントなどは、まさにそのような愛が失われた結果ではないでしょうか。
神の独り子イエス・キリストは、そのような「愛」を失っている私たちのところに、最も貧しく、最も低い姿でおいでになり、飼い葉桶の中から、「ここに愛がある、ここに平和がある。あなたもここに来て、その愛を受け取りなさい。その愛をもって出て行きなさい」と語りかけてくださっているのです。  (屼ノ下 照光)

11月の御言葉

御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。
                   (競謄皀 4章 2節)


               御言葉を宣べ伝えなさい

 北山琢先生は、10月1日付で桔梗が丘ルーテル教会の補教師に就任され、21日(日)の礼拝の中で補教師就任式が執り行われました。11月23日には、結婚式も執り行われます。ご結婚後、お二人は牧師館に移られ、新しい歩みを始められます。近畿福音ルーテル教会に新しい教職が誕生したこと、そして、桔梗が丘ルーテル教会に新しい働き人が与えられたことは大きな喜びです。共に、私たちの神さまに感謝いたしましょう
 補教師就任式では、テモテへの手紙二4章1〜2節、5節の御言葉が読まれました。
 「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えなさい。どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい」
 就任式では、北山琢師が、「補教師に就任し、忠実にその職務を行い、福音宣教のわざに励むように努めることを約束します」との約束を力強く表明されました。
教職の就任式では、就任者の誓約に続いて、教会員にも誓約が求められます。そこでは、司式者によって次のような問いかけがなされました。「桔梗が丘ルーテル教会の愛する兄弟姉妹の皆さん、あなたがたは今、北山琢補教師の厳かな約束の言葉を聞きました。そこで私は、あなたがたに尋ねます。あなたがたは、主イエス・キリストによって、あなたがたのために立てられ、与えられた北山琢補教師を受け入れ、彼のために祈り、主にある愛と尊敬とをもって交わりを築くことを約束しますか。また、北山琢補教師と共に、主に仕え、主に従うことを約束しますか」。これに対して会衆席からも、「はい、神の助けによって約束いたします」との応えが返ってきました。
 私は、就任式の司式の任を与えられた時には、いつもこのところで深い感動をおぼえます。御言葉を宣べ伝える福音宣教は、決して牧師や教職だけでできるものではありません。それは、主イエス・キリストの枝、群れとされた教会全体で行なうものなのです。
会衆の誓約の言葉にありましたように、どうぞ、北山琢補教師の働きとこれから築かれる家庭のためにお祈りください。また、主にある愛と尊敬をもって北山先生と共に、主に仕え、主に従ってまいりましょう。
どうぞよろしくお願いいたします。          (屼ノ下照光)

10月のみ言葉

ハレルヤ
新しい歌を主に向かって歌え。
主の慈しみに生きる人々の集いで賛美の歌をうたえ。
                  (詩編 149編1節)


               賛美の歌を歌え

 10月28日(日)は、宗教改革主日賛美礼拝です。この日、讃美歌を中心とした礼拝をまもります。みんなで、心から神さまを賛美しましょう。
 マルティン・ルターによる宗教改革は、礼拝をも大きく変えました。彼は、礼拝の中に、会衆が自国の言葉で讃美歌(コラール・衆賛歌)を歌うことをはじめました。ルター自身、たくさんの讃美歌を作詞作曲しています。
 ある牧師さんは、「キリスト教の礼拝の最大の魅力は『歌う』ということにある」と語っておられます。私もそう思います。讃美歌を歌うということがなかったら、私たちの礼拝は、ほんとうに味気ないものになるだろうと思います。
 
 讃美歌をうたうということは、「歌による神さまへの賛美」であり、「歌による神さまへの祈り」であるということができます。キリスト教会は、その歴史を通してたくさんの讃美歌を生み出してきました。また、福音宣教の拡大の中で、世界中のさまざまな国、民族の音楽をもってすばらしい讃美歌を生み出してきました。ルーテル教会の合同讃美歌委員会では、来年秋に、『教会讃美歌補遺機戮出版される予定です。この歌集には、ルターの曲、公募によって採用された曲、そして日本の新しい讃美歌が紹介されることになっています。この『教会讃美歌補遺』は、全部で3冊発行される予定になっています。世界中の新しい讃美歌も紹介されます。
 
 讃美歌は、個人の信仰生活においても、大きな慰めになったり、励ましになったりします。それぞれに愛唱の讃美歌があると思います。ある牧師さんは、愛唱の2〜3曲は、讃美歌集を見ないでも歌えるものがあれば、大きな慰めになるだろうと勧めておられます。
 そして、何よりも、礼拝の場で兄弟姉妹たちと声を合わせて歌うことは、信仰生活の大きな喜び、力となります。礼拝の場における讃美歌は、兄弟姉妹が共に神さまにささげる祈りとなります。そのような讃美歌を共に歌うことを通して、私たちは神さまへの信仰を互いに確認し合い、神さまからの恵みを分かち合うのです。また、祈りとしての讃美歌を共に歌うことを通して、私たちは「神の民」として形づくられ、信仰が新たにされるのです。いにしえの信仰者も、「主の慈しみに生きる人々の集いで賛美の歌をうたえ」と勧めています。
 10月28日(日)の賛美礼拝に、お友だちや近所の方々を誘っておいでください。なお、この日の礼拝後には、ミニ・バザーも予定されています。

                                (屼ノ下照光)

7月の御言葉

弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いのかという議論が起きた。イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、言われた。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」。                      
                    (ルカによる福音書 9章46〜48節)

            子どもたちの前でへりくだる     
                                   
 7月29日(日)、30日(月)は、子どもキャンプです。参加する子どもたちと、プログラムのすべてが守られるよう、お祈りください。また、このキャンプにお手伝いいただける方、献品などでご協力いただける方は、どうぞよろしくお願いいたします。
 今日、教会学校が行なわれている教会は、ずいぶんと少なくなりました。たいへんさびしいことです。幸い、私たちの教会では、毎週、多くはありませんが、子どもたちが集って、元気に神さまを賛美し、み言葉を聞いています。また、礼拝の中でも、子どもたちの声が聞こえることは、大きな喜びです。教会学校のこの灯火が消えることがないようにと、教会学校の先生方が毎週日曜日、朝早くからご奉仕くださっています。先生方お一人おひとりに、心から感謝申し上げます。教会学校教師としてご奉仕くださっている兄弟姉妹たちのことも、おぼえてお祈りいただきますよう、お願いいたします。

 私も、子どもたちを前にお話しさせていただいていますが、そんな時、もう40年以上も昔のことを思い起こします。神学校入学を前にしていた私は、西奈良ルーテル教会で伝道実習生としてお世話になっていました。時々、教会に隣接する保育園で、園児たちの礼拝でお話をしたり、子どもたちと遊んだりしていました。ある日の夕方、子どもたちと遊んでいるとき、私は、転んでいた“しんちゃん”という男の子の後ろから、ふざけてボールを軽くぶっつけて、笑ってしまいました。私自身は軽い気持ちだったのですが、しんちゃんは振り向いて、涙顔で私を見つめて、「いつもイエスさまの話をしてくれているのに」と言いました。いつもイエスさまの話をしている私のそのような態度が彼には許せなかったのでしょう。

 昔々の話ですが、このことは、私には、忘れられないできごとになっています。子どもたちと関わり、子どもたちに聖書のお話をするとき、このことがよみがえってきます。そして、私は、誰よりも、神さまと幼子たちの前にへりくだり、謙虚でなければと、いつも自らを戒めているのです。
                                 屼ノ下照光

6月の御言葉

「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」          (フィリピの信徒への手紙 4:6〜7)


              絶えず祈りなさい

最近、阪田寛夫さんの詩集に、たいへんおもしろい詩をみつけました。「祈りについて」という詩です。以下にそれを紹介いたします。

     祈りについて


    久しぶりに祈ろうとしたら
    神さまの呼び方を忘れてる
    主よ、と呼びかける資格はなし
    あなた、は何とも馴れ馴れしいし
    やっぱり神さま わたしはだめです 助けて下さい
    と本音が出た
    他人のことも祈りますから、と謝って
    片端から祈ると気が楽になり
    一番いやな奴のためにも祈ったら
    そいつの分だけ善人になった積りが情けない
    しらけて開けた目に粉雪舞ってる
    神さま、どうか風邪をひかないで下さい

 童謡「サッちゃん」の作詞者として有名なクリスチャン作家の信仰的なまじめさがよく表されている詩に、思わず笑ってしまいました。
聖書に、「絶えず祈りなさい」(汽謄汽蹈縫5章17節)と語られています。私たちが祈るのは、決してあたりまえのことではありません。主イエス・キリストの恵みの中で、神さまご自身が、「祈りなさい。わたしはあなたの祈りを聞く」と語ってくださっています。「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」(詩編50編15節 口語訳聖書)。
私たちの祈りを、私たちの心の注ぎ出しを、確かに聞いて、しっかりと受け止めてくださる方がおられます。その恵みに感謝して、祈りましょう。           
                              (屼ノ下照光)

5月の御言葉

「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」      (エフェソの信徒への手紙 1:15〜23)

               教会はキリストの体        

 5月13日(日)は、恒例のバザー家族礼拝とバザーです。どうぞ、お友だち、近所の方々にお声をかけて、お誘いください。この日は、「昇天主日」でもあります。5月10日(木)は、教会暦では、主イエスさまの昇天日になります。
復活されたイエスさまが昇天され、父なる神さまの右に座しておられると、聖書は語っています。主のご昇天は、私たちを虚無の淵に突き落としてしまう罪と、私たちが最も恐れている死に対してイエスさまが完全に勝利してくださったことを表しています。そして、その主は、毎日毎日、この世において、苦しんだり、嘆いたり、つまずいたり、悲しんだりしている私たちと共にいてくださって、私たちのために、父である神の右に座して、執り成してくださっていると、聖書は告げています。
 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と語られたイエスさまは、今、どこにおられるのでしょうか。もちろん、主イエスはどこにでもおられるのですが、さらに具体的にいうなら、それは、「教会である」と言うことができるのではないでしょうか。エフェソ1章23節においてパウロは、「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」と語っています。教会こそが、今も生きて、私たちに語りかけ、私たちのために執り成してくださっている主イエスさまご自身がおられるところです。それは、実に私たちがイエスさまに出会う場なのです。
 私たちの礼拝で大切なことは、教会において、兄弟姉妹が共に集い、確かにそこにおられるイエスさまと出会ってイエスさまからの慰めと励ましとをいただき、兄弟姉妹ともに主を拝み、主を賛美することです。ルカ24章51〜53節には不思議なことが記されています。「そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」。
 主イエスが弟子たちを離れていかれた後、彼らは大喜びで帰り、絶えず神さまをほめたたえていた、と記されています。ここにはイエスさまのご昇天とイエスさまを礼拝することが一つのこととして語られています。これは、イエスさまのご昇天というのは、弟子たちとイエスさまの別離ではなく、むしろ、両者を深く結びつける出来事であったということを表しています。そして、パウロは、イエスさまと弟子たち、すなわち私たちが深く結び合わせられる場所こそが、イエスさまが満ち満ちておられる教会であると語っているのです。                              
                               (屼ノ下照光)

3月の御言葉

祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。(マタイによる福音書 27章12〜14節)

苦役を課せられて、かがみ込み / 彼は口を開かなかった。
毛を切る者の前に物を言わない羊のように / 彼は口を開かなかった。           
                       (イザヤ書 53章 7節)


                 救い主の沈黙           

 マタイによる福音書27章には、民の宗教的指導者たちが、ねたみのために、イエスさまをローマ総督ピラトのもとに訴えるという裁判のようすが語られています。その裁判の場でイエスさまは、ピラトが驚くほどに何もお語りになりませんでした。それによって、ここには、人間の内にあるねたみ、優柔不断さ、責任のがれ、そして心の奥にひそむ残忍さといったものが、よりはっきりと表されているように思います。私自身は、この場面を読んだり、バッハの『マタイ受難曲』を聞いたりするとき、沈黙のうちに私を見つめておられる主イエスさまのまなざしを感じます。そして、私のうちにあるねたみ、優柔不断さ、責任のがれ、そして心の奥にひそむ残忍さ、心の奥底のどす黒い罪があばかれているような感じを抱きます。かつて、泉北教会で『十字架と復活』という人形劇が演じられました。私は、祭司長の役をいただき、この裁判の場面で、「イエスを十字架につけろ」と叫びました。その時、私自身が、心の底から、「イエスを十字架につけろ」と叫んでいるような印象を受け、戦慄をおぼえました。
 イエス・キリストの前に出るということは自分のうちにある、ねたみ、優柔不断さ、責任のがれ、心の奥にひそむ残忍さというものがあらわになるということなのだろうと思います。
 しかし、聖書は、私たちの醜い罪の姿を暴くだけではありません。聖書は、苦しめられ、侮辱されながらも、沈黙をまもられた主イエスさまをさし示して、茨の冠をつけられ、十字架を負われたこの方こそ、あなたがたの救い主、どうしようもない罪に苦しむあなたをそのままに受け入れ、あなたの病と苦しみ、罪を担う救い主であると語っているのです。
 今年の復活祭は、4月1日(日)です。この日は家族礼拝と昼食会、祝会を行ないます。どうぞ、ご予定に入れてくださり、誘い合って教会においでください。
 復活祭の前の一週間は、「受難週・聖週」と呼んで、イエス・キリストのご十字架教のご受難を偲ぶ時として、教会では古くから大切にされてきました。私たちの教会でも、次ページのように、受難週と復活祭のプログラムを用意しました。どうぞ、教会におでかけください。
                              牧師 屼ノ下照光

2月のみ言葉

主は言われる。
「今こそ、心からわたしに立ち帰れ
断食し、泣き悲しんで。
衣を裂くのではなく
お前たちの心を引き裂け」。

あなたたちの神、主に立ち帰れ。
主は恵みに満ち、憐れみ深く
忍耐強く、慈しみに富み
くだした災いを悔いられるからだ。 (ヨエル書 2章12〜13節)


                レント              

 2月14日(水)は、「灰の水曜日」です。この日から復活日までの日曜日を除く40日間をレント(四旬節)と呼んでいます。2月14日(水)午後7時30分から「灰の水曜日礼拝(聖餐式)」を執り行います。どうぞ、ご出席ください。この40日間というのは、主イエスさまが、荒れ野で40日間断食されたことを象徴するものであるといわれています。この期間に信仰者たちが断食や節制に励むという習慣もありました。レント(四旬節)は、主イエス・キリストのご受難と死をおぼえ、さらに主のご復活をお祝いするイースターを迎えるための準備の時です。また、それと共に、キリスト者ひとりひとりが、常日頃の信仰生活を顧みて、節制や克己に励む時としても大切にされてきました。
 
 ちなみに、カーニバルというのは、このレントに入る前に、好きなだけ食べて、飲んで、好きなだけ楽しもうということで、キリスト教国などではさまざまなイベントが行なわれてきました。ブラジルのリオのカーニバルは有名ですが、南米やヨーロッパでは、いろいろな習慣があるようです。これらは、教会の公式な行事ではありませんが、レントの期間を、敬虔にまじめに過ごそうとした信仰者たちの思いが込められているのではないかと思います。このようなけじめというのは、今日の信仰者にも必要なことかもしれませんね。
 
 灰の水曜日の礼拝では、いつもヨエル書2章のみ言葉が朗読されます。ここには、主なる神さまに立ち帰るようにという悔い改めへの呼びかけが語られています。「衣を裂いて灰をかぶる」というのが、当時の悔い改めの表わし方でした。しかし、ここでは、「おまえたちの心を引き裂け」と語られています。かたくなな心を砕いて、神さまの前に自分を無にして、その身も心も投げ出せと勧められているように思います。
 
 このレントは、心を砕き、悔い改めて神さまのもとに立ち帰る時です。しかし、ここで語られている大切なことは、実に、神さまに背を向け、愛が冷え切っているような私たちをも、神さまが深い憐れみをもって迎え入れてくださるという約束です。「恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富」んでおられる主なる神さまが、迎え入れ、抱きとめてくださると語られています。この「満ちあふれる恵み、深い憐れみ、慈しみ」は、主イエス・キリストの十字架にはっきりと示されています。
 このレントの時を、主イエスさまの十字架を見上げて、共に歩みましょう。
                              
                               牧師 屼ノ下照光

11月のみ言葉

子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。
                (マルコによる福音書10章14〜15節)



              「イエスさまの笑顔」

 私は、イエスさまが子どもたちを抱き上げて、手を置いて祝福されたというこの聖書の場面が大好きです。なぜなら、ここにはイエスさまのあふれるような笑顔があるからです。聖書には、イエスさまがお怒りになったとか、涙を流されたという記述はありますが、イエスさまがお笑いになったとは語られていません。しかし、このとこからは、確かにイエスさまの楽しそうな笑い声が聞こえてきます。

今年も11月12日(日)に、子ども祝福式家族礼拝を執り行います。礼拝の中で栗かおり先生に「子ども祝福の祈り」をしていただきます。どうぞ、この日、お子さまやお孫さんたちとご一緒に、イエスさまの笑顔に会いに教会においでください。

 イエスさまは、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と語っておられます。イエスさまは、“愛と恵み”が支配する神の国は、実に子どもたちのものであると語っておられるのです。イエスさまは、私たち大人もまた、子どもたちのように“愛と恵み”の神の国をすなおに受け入れ、“愛と恵み”の中、そして、イエスさまの笑顔の中に歩み続けるようにと招いておられます。
 今日、多くの教会では、教会学校がありません。また、子どもたちの声を聞くことができない教会もあります。毎週の礼拝で、子どもたちと一緒に礼拝をまもっている私たちの教会は、なんと大きな喜びと恵みにあふれていることかと思います。 
                             牧師 屼ノ下照光

10月の御言葉

涙と共に種を蒔く人は
喜びの歌と共に刈り入れる。
種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は
束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる。
              (詩編 126章5〜6節


                 収穫の喜び
 
 NHK朝の連続ドラマ「ひよっこ」を楽しみに見ていました。1964年〜1967年頃の時代が描かれており、「集団就職」なども描かれていました。同じ時代に田舎の中学を卒業して大阪に出てきた私には、懐かしくもまたほろ苦いものを思い出させるドラマでした。このドラマの中に、主人公の田舎での田植えや刈り入れの場面もありました。今日のように機械化されていない時代の田んぼの風景にも郷愁をかられました。

 詩編126編5〜6節の、私がこの季節にいつも思い起こすみ言葉です。朝の散歩の折、刈り入れが終わったばかりのあの田んぼの匂いに触れるとき、このみ言葉を思い起こします。そして、このみ言葉は、遠い昔の田舎の風景へと私を連れ戻してくれるのです。

 子どものころ、秋のひんやりとした早朝、家族、親戚総出で山の田んぼに出かけました。大人たちが、鎌で刈り入れて束ねた稲穂を、子どもたちが背負って運びました。お昼に草の上でみんなでいただいたご飯のおいしさ、楽しさもはっきりと思い起こすことができます。一日の仕事が終わって、稲束を荷車に山のように積んで家に帰った時の夕焼けの美しさも懐かしく思い出します。

 詩編126編は、バビロン捕囚という想像を絶する苦しみを経験した人々に、神さまによる解放が告げられたという喜びを歌っています。
      主がシオンの捕らわれ人を連れ帰られると聞いて
      わたしたちは夢を見ている人のようになった。
      そのときには、わたしたちの口に笑いが
      舌に喜びの歌が満ちるであろう。
      そのときには、国々も言うであろう
      「主はこの人々に、大いなる業を成し遂げられた」と。
 
 9月に、私たちの教会でも“敬老の交わり礼拝”と敬老お祝い会をしました。70年、80年の年を重ねきた方々は、今まさに刈り入れ、収穫の喜びの時を迎えておられるのではないでしょうか。たとえ、その人生が、泣きながら、涙と共にあったような歩みであったとしても、神さまが確かにそなえてくださる豊かな収穫の秋があることをこのみ言葉は語っているように思います。                   
                            (牧師 屼ノ下照光)


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    (近畿福音ルーテル桔梗が丘教会)
    牧師 : 屼ノ下 照光
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