6月の御言葉

「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」          (フィリピの信徒への手紙 4:6〜7)


              絶えず祈りなさい

最近、阪田寛夫さんの詩集に、たいへんおもしろい詩をみつけました。「祈りについて」という詩です。以下にそれを紹介いたします。

     祈りについて


    久しぶりに祈ろうとしたら
    神さまの呼び方を忘れてる
    主よ、と呼びかける資格はなし
    あなた、は何とも馴れ馴れしいし
    やっぱり神さま わたしはだめです 助けて下さい
    と本音が出た
    他人のことも祈りますから、と謝って
    片端から祈ると気が楽になり
    一番いやな奴のためにも祈ったら
    そいつの分だけ善人になった積りが情けない
    しらけて開けた目に粉雪舞ってる
    神さま、どうか風邪をひかないで下さい

 童謡「サッちゃん」の作詞者として有名なクリスチャン作家の信仰的なまじめさがよく表されている詩に、思わず笑ってしまいました。
聖書に、「絶えず祈りなさい」(汽謄汽蹈縫5章17節)と語られています。私たちが祈るのは、決してあたりまえのことではありません。主イエス・キリストの恵みの中で、神さまご自身が、「祈りなさい。わたしはあなたの祈りを聞く」と語ってくださっています。「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」(詩編50編15節 口語訳聖書)。
私たちの祈りを、私たちの心の注ぎ出しを、確かに聞いて、しっかりと受け止めてくださる方がおられます。その恵みに感謝して、祈りましょう。           
                              (屼ノ下照光)

5月の御言葉

「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」      (エフェソの信徒への手紙 1:15〜23)

               教会はキリストの体        

 5月13日(日)は、恒例のバザー家族礼拝とバザーです。どうぞ、お友だち、近所の方々にお声をかけて、お誘いください。この日は、「昇天主日」でもあります。5月10日(木)は、教会暦では、主イエスさまの昇天日になります。
復活されたイエスさまが昇天され、父なる神さまの右に座しておられると、聖書は語っています。主のご昇天は、私たちを虚無の淵に突き落としてしまう罪と、私たちが最も恐れている死に対してイエスさまが完全に勝利してくださったことを表しています。そして、その主は、毎日毎日、この世において、苦しんだり、嘆いたり、つまずいたり、悲しんだりしている私たちと共にいてくださって、私たちのために、父である神の右に座して、執り成してくださっていると、聖書は告げています。
 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と語られたイエスさまは、今、どこにおられるのでしょうか。もちろん、主イエスはどこにでもおられるのですが、さらに具体的にいうなら、それは、「教会である」と言うことができるのではないでしょうか。エフェソ1章23節においてパウロは、「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」と語っています。教会こそが、今も生きて、私たちに語りかけ、私たちのために執り成してくださっている主イエスさまご自身がおられるところです。それは、実に私たちがイエスさまに出会う場なのです。
 私たちの礼拝で大切なことは、教会において、兄弟姉妹が共に集い、確かにそこにおられるイエスさまと出会ってイエスさまからの慰めと励ましとをいただき、兄弟姉妹ともに主を拝み、主を賛美することです。ルカ24章51〜53節には不思議なことが記されています。「そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」。
 主イエスが弟子たちを離れていかれた後、彼らは大喜びで帰り、絶えず神さまをほめたたえていた、と記されています。ここにはイエスさまのご昇天とイエスさまを礼拝することが一つのこととして語られています。これは、イエスさまのご昇天というのは、弟子たちとイエスさまの別離ではなく、むしろ、両者を深く結びつける出来事であったということを表しています。そして、パウロは、イエスさまと弟子たち、すなわち私たちが深く結び合わせられる場所こそが、イエスさまが満ち満ちておられる教会であると語っているのです。                              
                               (屼ノ下照光)

3月の御言葉

祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。(マタイによる福音書 27章12〜14節)

苦役を課せられて、かがみ込み / 彼は口を開かなかった。
毛を切る者の前に物を言わない羊のように / 彼は口を開かなかった。           
                       (イザヤ書 53章 7節)


                 救い主の沈黙           

 マタイによる福音書27章には、民の宗教的指導者たちが、ねたみのために、イエスさまをローマ総督ピラトのもとに訴えるという裁判のようすが語られています。その裁判の場でイエスさまは、ピラトが驚くほどに何もお語りになりませんでした。それによって、ここには、人間の内にあるねたみ、優柔不断さ、責任のがれ、そして心の奥にひそむ残忍さといったものが、よりはっきりと表されているように思います。私自身は、この場面を読んだり、バッハの『マタイ受難曲』を聞いたりするとき、沈黙のうちに私を見つめておられる主イエスさまのまなざしを感じます。そして、私のうちにあるねたみ、優柔不断さ、責任のがれ、そして心の奥にひそむ残忍さ、心の奥底のどす黒い罪があばかれているような感じを抱きます。かつて、泉北教会で『十字架と復活』という人形劇が演じられました。私は、祭司長の役をいただき、この裁判の場面で、「イエスを十字架につけろ」と叫びました。その時、私自身が、心の底から、「イエスを十字架につけろ」と叫んでいるような印象を受け、戦慄をおぼえました。
 イエス・キリストの前に出るということは自分のうちにある、ねたみ、優柔不断さ、責任のがれ、心の奥にひそむ残忍さというものがあらわになるということなのだろうと思います。
 しかし、聖書は、私たちの醜い罪の姿を暴くだけではありません。聖書は、苦しめられ、侮辱されながらも、沈黙をまもられた主イエスさまをさし示して、茨の冠をつけられ、十字架を負われたこの方こそ、あなたがたの救い主、どうしようもない罪に苦しむあなたをそのままに受け入れ、あなたの病と苦しみ、罪を担う救い主であると語っているのです。
 今年の復活祭は、4月1日(日)です。この日は家族礼拝と昼食会、祝会を行ないます。どうぞ、ご予定に入れてくださり、誘い合って教会においでください。
 復活祭の前の一週間は、「受難週・聖週」と呼んで、イエス・キリストのご十字架教のご受難を偲ぶ時として、教会では古くから大切にされてきました。私たちの教会でも、次ページのように、受難週と復活祭のプログラムを用意しました。どうぞ、教会におでかけください。
                              牧師 屼ノ下照光

2月のみ言葉

主は言われる。
「今こそ、心からわたしに立ち帰れ
断食し、泣き悲しんで。
衣を裂くのではなく
お前たちの心を引き裂け」。

あなたたちの神、主に立ち帰れ。
主は恵みに満ち、憐れみ深く
忍耐強く、慈しみに富み
くだした災いを悔いられるからだ。 (ヨエル書 2章12〜13節)


                レント              

 2月14日(水)は、「灰の水曜日」です。この日から復活日までの日曜日を除く40日間をレント(四旬節)と呼んでいます。2月14日(水)午後7時30分から「灰の水曜日礼拝(聖餐式)」を執り行います。どうぞ、ご出席ください。この40日間というのは、主イエスさまが、荒れ野で40日間断食されたことを象徴するものであるといわれています。この期間に信仰者たちが断食や節制に励むという習慣もありました。レント(四旬節)は、主イエス・キリストのご受難と死をおぼえ、さらに主のご復活をお祝いするイースターを迎えるための準備の時です。また、それと共に、キリスト者ひとりひとりが、常日頃の信仰生活を顧みて、節制や克己に励む時としても大切にされてきました。
 
 ちなみに、カーニバルというのは、このレントに入る前に、好きなだけ食べて、飲んで、好きなだけ楽しもうということで、キリスト教国などではさまざまなイベントが行なわれてきました。ブラジルのリオのカーニバルは有名ですが、南米やヨーロッパでは、いろいろな習慣があるようです。これらは、教会の公式な行事ではありませんが、レントの期間を、敬虔にまじめに過ごそうとした信仰者たちの思いが込められているのではないかと思います。このようなけじめというのは、今日の信仰者にも必要なことかもしれませんね。
 
 灰の水曜日の礼拝では、いつもヨエル書2章のみ言葉が朗読されます。ここには、主なる神さまに立ち帰るようにという悔い改めへの呼びかけが語られています。「衣を裂いて灰をかぶる」というのが、当時の悔い改めの表わし方でした。しかし、ここでは、「おまえたちの心を引き裂け」と語られています。かたくなな心を砕いて、神さまの前に自分を無にして、その身も心も投げ出せと勧められているように思います。
 
 このレントは、心を砕き、悔い改めて神さまのもとに立ち帰る時です。しかし、ここで語られている大切なことは、実に、神さまに背を向け、愛が冷え切っているような私たちをも、神さまが深い憐れみをもって迎え入れてくださるという約束です。「恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富」んでおられる主なる神さまが、迎え入れ、抱きとめてくださると語られています。この「満ちあふれる恵み、深い憐れみ、慈しみ」は、主イエス・キリストの十字架にはっきりと示されています。
 このレントの時を、主イエスさまの十字架を見上げて、共に歩みましょう。
                              
                               牧師 屼ノ下照光

11月のみ言葉

子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。
                (マルコによる福音書10章14〜15節)



              「イエスさまの笑顔」

 私は、イエスさまが子どもたちを抱き上げて、手を置いて祝福されたというこの聖書の場面が大好きです。なぜなら、ここにはイエスさまのあふれるような笑顔があるからです。聖書には、イエスさまがお怒りになったとか、涙を流されたという記述はありますが、イエスさまがお笑いになったとは語られていません。しかし、このとこからは、確かにイエスさまの楽しそうな笑い声が聞こえてきます。

今年も11月12日(日)に、子ども祝福式家族礼拝を執り行います。礼拝の中で栗かおり先生に「子ども祝福の祈り」をしていただきます。どうぞ、この日、お子さまやお孫さんたちとご一緒に、イエスさまの笑顔に会いに教会においでください。

 イエスさまは、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と語っておられます。イエスさまは、“愛と恵み”が支配する神の国は、実に子どもたちのものであると語っておられるのです。イエスさまは、私たち大人もまた、子どもたちのように“愛と恵み”の神の国をすなおに受け入れ、“愛と恵み”の中、そして、イエスさまの笑顔の中に歩み続けるようにと招いておられます。
 今日、多くの教会では、教会学校がありません。また、子どもたちの声を聞くことができない教会もあります。毎週の礼拝で、子どもたちと一緒に礼拝をまもっている私たちの教会は、なんと大きな喜びと恵みにあふれていることかと思います。 
                             牧師 屼ノ下照光

10月の御言葉

涙と共に種を蒔く人は
喜びの歌と共に刈り入れる。
種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は
束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる。
              (詩編 126章5〜6節


                 収穫の喜び
 
 NHK朝の連続ドラマ「ひよっこ」を楽しみに見ていました。1964年〜1967年頃の時代が描かれており、「集団就職」なども描かれていました。同じ時代に田舎の中学を卒業して大阪に出てきた私には、懐かしくもまたほろ苦いものを思い出させるドラマでした。このドラマの中に、主人公の田舎での田植えや刈り入れの場面もありました。今日のように機械化されていない時代の田んぼの風景にも郷愁をかられました。

 詩編126編5〜6節の、私がこの季節にいつも思い起こすみ言葉です。朝の散歩の折、刈り入れが終わったばかりのあの田んぼの匂いに触れるとき、このみ言葉を思い起こします。そして、このみ言葉は、遠い昔の田舎の風景へと私を連れ戻してくれるのです。

 子どものころ、秋のひんやりとした早朝、家族、親戚総出で山の田んぼに出かけました。大人たちが、鎌で刈り入れて束ねた稲穂を、子どもたちが背負って運びました。お昼に草の上でみんなでいただいたご飯のおいしさ、楽しさもはっきりと思い起こすことができます。一日の仕事が終わって、稲束を荷車に山のように積んで家に帰った時の夕焼けの美しさも懐かしく思い出します。

 詩編126編は、バビロン捕囚という想像を絶する苦しみを経験した人々に、神さまによる解放が告げられたという喜びを歌っています。
      主がシオンの捕らわれ人を連れ帰られると聞いて
      わたしたちは夢を見ている人のようになった。
      そのときには、わたしたちの口に笑いが
      舌に喜びの歌が満ちるであろう。
      そのときには、国々も言うであろう
      「主はこの人々に、大いなる業を成し遂げられた」と。
 
 9月に、私たちの教会でも“敬老の交わり礼拝”と敬老お祝い会をしました。70年、80年の年を重ねきた方々は、今まさに刈り入れ、収穫の喜びの時を迎えておられるのではないでしょうか。たとえ、その人生が、泣きながら、涙と共にあったような歩みであったとしても、神さまが確かにそなえてくださる豊かな収穫の秋があることをこのみ言葉は語っているように思います。                   
                            (牧師 屼ノ下照光)

7月の御言葉

涸れた谷に鹿が水を求めるように
神よ、わたしの魂はあなたを求める。
神に、命の神に、わたしの魂は渇く。
いつ御前に出て、神の御顔を仰ぐことができるのか。
昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。
人は絶え間なく言う
「お前の神はどこにいる」と。
わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす。
喜び歌い感謝をささげる声の中を、祭りに集う人の群れと共に進み
神の家に入り、ひれ伏したことを。
なぜうなだれるのか、わたしの魂よ
なぜ呻くのか。
神を待ち望め。
わたしはなお告白しよう
「御顔こそ、わたしの救い」と。
わたしの神よ。          (詩編 42編2〜7節)



                神を待ち望め 
            
 ある日曜日の午後、美杉教会に向かって車を走らせていたとき、二頭の鹿が道路沿いの川におりていくのを見ました。そのとき、私は、この詩編42編のみ言葉を思い起こしました。
 詩編は、いにしえの信仰者たちの心の深いところからの祈りです。そこには、神さまへの賛美や感謝、神の救いや憐れみを求める魂の奧から絞り出すような呻きや叫び、また、神への強烈な訴えなど、実に、人間の正直で率直な思いが表されています。私は、詩編を用いて、私の祈りとして、神さまに私の思いや願いを訴えることがあります。
この詩編42編は、「嘆きの歌」というジャンルに含まれるものです。この詩人は、非常に大きな苦しみ、または、悲嘆を経験しているようです。そのうえに周囲からは、「お前の神はどこにいるのか?お前を助けてくれる神はいないのか」という、心ない言葉を浴びせられていました。その苦しみの中で、彼は嘆きながらも、主なる神さまに、自分の思いを訴え続けているのです。彼は「涸れた谷に水を求める鹿のように、神を求めている」と、その心の奥深いところからの訴えを表現しています。厳しい苦しみの中でこの詩人は、信仰の友、仲間たちと共に、神の家(神殿)において、感謝と賛美をささげた祭り、礼拝を思い起こしています。
 そして、自分の魂に向かって次のように歌っています。「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ / なぜ呻くのか / 神を待ち望め / わたしはなお告白しよう / 「御顔こそ、わたしの救い」と / わたしの神よ」。42編と43編は、もともと一つの詩であるといわれていますが、そこではこのフレーズが3回繰り返されています。
厳しい状況の中で、この詩人は、彼自身に向かって、「神を待ち望め、御顔こそ私の救い」という信仰を与えられて、神さまを賛美しているのです。
 もうどうすることもできないというような苦しみの中で、神さまを待ち望むことができる人はさいわいです。私たちもまた、この詩人が歌っているように、兄弟姉妹たちと共に喜び歌い感謝をささげる礼拝の場が与えられており、共に神を待ち望むものとされています。そのことを感謝しましょう。                牧師:屼ノ下照光

6月の御言葉

時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。
  あなたを祝福する者をわたしは祝福し、
  あなたをのろう者をわたしはのろう。
  地のすべてのやからは、
  あなたによって祝福される」。  (創世記 12章1〜3節・口語訳)



              祝福の基とされている私たち
     
毎月2回行っている「聖書に触れる会」では、ちょうど“アブラハム物語”が始まりました。
 神さまは、ご自身の愛を人々に示し、その救いのみわざをすべての人に知らせるために、人を選び、用いてくださいます。アブラハムはそのために選ばれ、召されました。罪のゆえに混乱し、ただ滅びるばかりの人間を、神さまはなおも愛し、救いの手を差し伸べてくださっていることを示すために、アブラハムを愛し、選ばれたのです。それがここでは「祝福の基となる」という言葉で表現されています(新共同訳では「祝福の源」)。“祝福”の反対は“のろい”です。神さまは私たちの人間のわざわい、呪いを願っておられるのではありません。実に私たちが祝福を受けることを願っておられます。神さまは、アブラハムを愛し、選んで祝福し、彼を通して神さまの祝福が全人類に広がることを願われたのです。それゆえ、アブラハムは“信仰の父”と呼ばれています。信仰によってアブラハムの子孫とされている私たちもまた“祝福の基”となるように選ばれ、救いをいただいています。なぜ神さまが私を選ばれたのか。それは聖書に語られているように、「ただ神の愛による」としか言いようがありません。しかし、何のために選ばれたのかというならば、それは、私たちが、この私が“祝福の基、祝福の源”となるためであるということです。すなわち、私にあらわされた神さまの愛を指し示し、救いの喜び、祝福を告げ知らせ、それを撒き散らすためであるということです。
 
 昨年の2月から私は毎朝の散歩を日課としています。森や公園の中の約1時間の散歩はほんとうに気持ちの良いものです。この散歩はまた、私の祈りの時にもなっています。いつもお話ししているように、私の祈りはいつも、「主キリストよ、わたしを憐れんでください、キリエ・エレイソン」ですが、最近では、「主キリストよ、この世界を憐れみ、あなたの平和を注いでください」と祈りながら、歩いています。また、「神さま、今日、わたしが出会う一人ひとりに、あなたの祝福と平和がありますように」と繰り返し祈っています。神さまの祝福を祈るということ、それは、“祝福の基”である私たちのたいせつな務めなのです。                         (牧師:屼ノ下照光)

4月の御言葉

イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。 (ヨハネによる福音書11章25〜26節)

               復活の希望に生き        

 筋委縮側索硬化症という難病を背負われた川口武久兄は、厳しい闘病の中で、桔梗が丘ルーテル教会に導かれ、1981年10月29日に、エドラン牧師から洗礼を受けられました。川口兄は、その後、四国の松山ベテル病院に移られ、「アミトロの会」を立ち上げて、同じ病気に苦しむ人たちとその家族を励まし続けられました。その川口兄も1994年9月に53歳のご生涯を終えられました。
 彼は、闘病中に不自由な手でカナタイプを打って、4冊の本を著されました。それらの本を読みますと、日毎に病に蝕まれる中、確実に迫ってくる死を見つめながらの彼の闘病の日々を支えたのは、主イエスさまに対する信仰であり、主イエスさまのご復活であったことがわかります。川口兄の『ひとり居て一人で思う独り言』というエッセー集の中に、「医学生との対話」という文があります。ベテル病院で研修した広島大学の女性医学生と対話し、彼女の質問に応えたという内容です。その中に次のような文がありました。

 「次に、私にとって病気とは何なのか、と鋭い質問が飛び出した。私は、この病気になるまで病気らしい病気をしたことがなかっただけに、そのダメージは大きく、ショックは計り知れないものだった。それだけに受容するまでには、さまざまな葛藤を繰り返した。その結果、病気は人生最大の試練であり、来世へのステップだと受け止めるに至った。死は無であるという人には一笑にされそうであるが、信じられる者には幸いだろう。この試練を克服してこそ、人生の総決算ができて、永遠の命の門に辿り着けると確信している。だから死は、それほど不安でもなく恐ろしくもない。ただ神によしとされる日まで、その使命が果たせるかが心配であり、苦悩するところである。これは信仰の賜物だ。彼女にも信仰を強く勧めた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は決して死ぬことがありません』」(ヨハネ11章25節・新改訳聖書)

 この本には川口兄の短歌もたくさん掲載されています。たいへん深い歌もあれば、思わず笑ってしまうような歌もあります。その中に、次のような歌がありました。「復活をひたすら信ず喜びも不治の病の賜物なりし」。ここにも、彼の確かな“復活信仰”を見ることができます。
 難病との厳しい闘いの中で、川口武久兄は、その独り子をお与えくださるほどの神さまの愛に受け入れられていることを知り、独り子イエス・キリストの復活のゆえに、死のかなたにある復活のいのちの希望をもって、その厳しくも充実した人生を歩み続け、御国へと凱旋されたのです。
川口兄と同じ信仰を与えられている者として、私たちも、主が御国に召してくださるその時まで、この“復活の希望”の中を、それぞれの大切な人生を歩み続けたいと願わされます。                            牧師:屼ノ下照光

2月の御言葉

イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」。そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。
                    (マルコによる福音書10章13〜16節)



               イエスさまの笑顔

 マルコ10章のイエスさまが子どもたちを祝福されるこの聖書の場面は、私の大好きなところです。ここを読むたびに、私はイエスさまが満面に笑みを浮かべておられるようすを想像します。聖書にはイエスさまが笑ったという記述はありませんが、ここには確かに愉快そうに笑っておられるイエスさま、あふれる笑顔のイエスさまがおられます。イエスさまの笑顔の中で子どもたち、幼な子たちは、神の国にどっぷりとつかっています。
 
 私は、近畿福音ルーテル教会の伝道実習生として歩み始めた44年前から今日まで、教会学校や保育園、幼稚園で、多くの子どもたち、幼な子たちとふれあってきました。そして、そのことをたいへん大切なこととして受け止めてきました。幼な子たちとのふれあいの中で、罪深い私もまた神の国の入口に立つことが許されてきたように思います。これからも、神の国にどっぷりとつかっている幼な子たちとのふれあいを大切にしていきたいと思います。
マルチンルターは、幼な子たちについて次のような言葉を残しています。

「幼い子どもらの信仰といのちにまさるものはない。彼らはみことばをそのまま受け入れるばかりだからである。われわれ年寄りの愚か者は、地獄と、地獄の業火を持っており、みことばについて議論するが、彼らは純粋な信仰で議論などせずに信じているのだ。それでも、最後には、彼らのように、われわれもみことばにのみ頼らなければならないのであろう」。(『卓上語録』1531年)

 私たちの教会にも、毎週、子どもたちが元気にやってきて、みことばを聞き、喜びの讃美を歌っています。この子どもたちひとり一人をおぼえてお祈りください。また、教会学校の教師として大切なご奉仕をしてくださっている兄弟姉妹たちをおぼえて、お祈りください。  
                             (牧師:屼ノ下照光)


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