7月の御言葉

青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。
苦しみの日々が来ないうちに。
「年を重ねることに喜びはない」
と言う年齢にならないうちに。
(コヘレトの言葉 12章1節) 

青春の日々に

 7月28日(日)〜29日(月)に、私たちの教会が所属している近畿福音ルーテル教会三重地区合同夏の子どもキャンプが、志摩市大王町の志摩キリスト教会で開催されます。小学生が対象ですが、お子さまやお孫さんたちのご参加はいかがでしょうか。どうぞ、ご案内ください。ご関心ある方は、教会にあるポスターやチラシをご覧ください。
 このようなキャンプで、子どもたちが神さまに出会い、新しいお友だちと出会うことができたなら、それはどんなにすばらしいことかと思います。

 私は、50年前に聖書が語る神さま、イエス・キリストに出会いました。否、イエス・キリストが私に出会ってくださり、私を捕らえ、私をしっかりと抱きとめてくださいました。そのころ、17歳の私は、青春の真ん中にいましたが、自分自身が何者であるかもわからず、生きる目的も知らず、夢も希望もなく、悶々とした中で、どうにでもなれといった投げやりな思いで、すねたように日々を送っていました。                                                                                                                               そんな時、イエスさまが私に出会ってくださり、私が何者であるかを、おぼろげながらも知らされました。それは、この私は、天と地を創造された神さまによって造られ、命を与えられ、その方に深く愛され、大切にされている存在であるということでした。おぼろげではありましたが、深い闇の中にいたような私にはそれで十分でした。それが、私の信仰の歩みの始まりであり、それによって今日まで支えら
「神は、その独り子(ヒトリゴ・すなわちイエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3章16節)と聖書に語られているように、独り子(ヒトリゴ)イエスさまを十字架につけてしまわれるほどの圧倒的な愛で、神さまはこの私を包み込んでくださいました。
 「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」と聖書に語られていますが、青春の日々の中で、この愛の神さまに出会ったこと、否、神さまがこの私と出会ってくださった恵みを、深く感謝しています。そして、私は、この方の愛の中でこれからの生涯も導かれ、さらには、死のかなたにおいても、この方の愛の中に包まれるという希望を抱いています。                             牧師 屼ノ下照光

                                                                                                                          

6月の御言葉


5月の御言葉

女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。
母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。
たとえ、女たちが忘れようとも
わたしがあなたを忘れることは決してない。

           (イザヤ書 49章15節)

母の日                   牧師:屼ノ下照光
5月12日(日)は、桔梗が丘ルーテル教会のバザー「ルーテル・マルシェ」です。お友だち、近所の方々を誘って教会においでください。
5月第2日曜日のこの日は「母の日」です。「母の日」は、1908年、アメリカの教会で始まりました。ウェストヴァージニア州にアンナ・マリア・リーヴス・ジャーヴィスという女性がいました。彼女は教会学校で奉仕しながら、すべての母親を讃える特別な日の制定を望みながら亡くなりました。彼女の娘アンナ(母親と同名)は、母親の遺志を継いで地道な運動を重ね、1908年5月10日に、教会において「すべての母親に感謝する礼拝」が行なわれました。この日は、彼女の母親の命日にいちばん近い日曜日でした。娘アンナは、この礼拝に出席する人たちのために500本の白いカーネーションを用意しました。それは、母親の好きな花でした。それは、母親の愛の美しさ、純粋さ、忍耐強さを象徴しているとされています。1914年には、アメリカの議会において、5月第二日曜日を「母の日」とすることが決められました。ちなみに、日本でのはじめての「母の日」は、1922年(12年)です。
ある牧師さんがこのように語っていました。
「聖書には、『右の頬を打たれたら、左の頬も向けなさい』とか、『下着を取ろうとする者には上着も取らせなさい』という、よく知られた主イエスの教えがあります。これらの教えを守れる人はだれもいない。いるとすれば、それは母親だけである」。
また、他の牧師さんは、自分のお母さんについて次のように語っています。彼のお母さんは終戦後の食料不足の時、自分は食べないで彼と妹さんに食べさせて亡くなってしまわれたそうです。
「そのようにして、母が亡くなったことは、ずっと後に、母の友人から聞いたことでしたが、それを聞いた時、わたしはこう思いました。『ああそうか、母ちゃんは、子どもはまた産めばいいと言って自分が助かってもよかったのに、そうしないで死んでくれたんだ。それで、おれが生きたんだな。この命はかあちゃんのおかげなんだ』。わたしはいつまでもこのことを忘れません」。
食べるものも食べないで子どもに食べさせるとか、夜中に一睡もすることなく、病気の子供を看病するといったお母さんの姿を、私たちも見てきたのではないでしょうか。私自身も母親を亡くしてからずいぶんと年月を経ましたが、母親を思い起こすと、胸が熱くなります。私は、15歳の時からずっと母親と離れて歩んできましたが、それでも、母親の優しさや温かさ、そして、ほろ苦い思い出など、いくらでも思い起こすことができます。
イザヤ書49章15節のみ言葉に、私はいつも深い感動を覚えます。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか」。母親が我が子を忘れるなどあり得ないことだと語られています。そして、主なる神さまは、続いて、「たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない」と語っておられます。
 『母の日』にあたり、それぞれの母親への感謝をあらわしたいと思います。そして、母親の愛にもまさるまことの愛をもって、大切な母親を与えてくださった主なる神さまに、深い感謝と賛美をあらわしたいと思います。


4月の御言葉

子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。
だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに
見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。

                    ルカによる福音書15章31,32節



すべての人を祝宴に招く
 ある人に二人の息子がありました。弟の要求に応じて、父親は遺産を二人に生前分与してやりました。それを手にした弟は家を飛び出し、遠い国へ旅立ち、放蕩の限りを尽くして全財産を使い果たしてしまいました。ひどい飢饉が起こって、食べる物に窮し、頼った人には禁忌である豚の世話をさせられますが、豚のエサすら口にすることが出来ませんでした。彼は我に返って、父のところに帰って罪を告白し、雇人として養ってもらおうとします。息子と呼ばれる資格もないのだから、と。
 ところが、父親は遠く離れたところで早くも息子を見つけ、憐れに思って駆け寄って抱きしめ、接吻しました。上等の服、指輪、履物を着させ、肥えた子牛を屠って祝宴を始めました。畑から帰った兄は、その知らせを聞いて立腹し、家に入ろうともしません。すると、父親は、外に出てきて、なだめるのです。兄は、何年もまじめに父に仕え、言いつけも守ってきたのに、友達との宴会に子山羊一匹すらもらえなかった、それなのに、身上を食いつぶした弟には、肥えた子牛を屠ってもてなすのか、と怒りをぶつけます。それに対する父親の言葉が、冒頭の御言葉です。有名な『放蕩息子』のたとえです。

 私たちは、神さまのもとで生きる素晴らしさがわかりません。自分の人生は自分のものだ。誰にも束縛されず、好き勝手に生きていきたい。財産さえあれば、それでいい。そんな風に思います。しかし、その行き着くところは滅びです。何もかも失っても、この弟のように、父なる神さまのもとに帰ろうと思うことが出来れば、幸いです。
  神さまは、息子の帰還を今か、今かと待っていてくださいます。『憐れに思う』とは、神さまにしか使われない、「腸のちぎれるような思いに駆られる」という言葉です。それほどまでに思って駆け寄って抱きしめ、御国の祝宴に与らせてくださるのです。
 ところが、兄の方は、弟に嫉妬し、弟とも認めず、祝宴に出ようともしません。放蕩の限りを尽くした弟を、父が愛情たっぷりに受け入れ、もてなすことに腹を立てます。弟のことを、『あなたのあの息子』と皮肉な呼び方をし、批判します。自分はずっと父に『仕えている』と言うとき、『奴隷として仕える』という言葉を使っています。実は兄も、父のもとで生きることを喜んでいないのです。その素晴らしさが解っていないのです。嫌だけれども、我慢して従っているのだ、それなのに、そんな自分には何の報いもなく、放蕩息子の方に愛を注ぐのか、と言うのです。
 
 イエスさまは、ファリサイ派や律法学者たちに向かって、このたとえを話されました。彼らは、イエスさまが、御許に来て話を聞こうとする徴税人や罪人を受け入れ、食事も共にされたことが不満だったのです。ファリサイ派や律法学者たちが兄、徴税人や罪人が弟です。父なる神さまは、弟だけでなく、兄のことも慈しんでおられます。僻んで家に入らない兄のもとへ行き、なだめる。『なだめる』というのは、そばに呼び寄せるというのが原義です。そこから慰め、励まし、諭すという意味に広がります。この言葉の名詞が助け手、慰め主という言葉で、神さま、御子イエスさま、ご聖霊のことを言い表します。

 神さまは、すべての人が御許に帰り、救われ、御国の祝宴に共に与ることを望んでおられるのです。放蕩している者も、自分を正しいと思っている者も、実は自分勝手な歩み、自己中心的な歩みをしているという意味では同じです。しかし、神さまは、どちらであっても祝宴に招いておられるのです。 
 神さまは、ご自分から離れて放蕩している私たちを、また、自分を正しいと思って人を見下す私たちを、自分勝手な滅びの道から、何とか御そばに引き寄せ、生きるようにと望まれました。大切な御子イエスさまを身代わりにするほどまでに、私たちを愛してくださいました。イエスさまを十字架に架けて殺し、そして復活させることによって、私たちが罪から救われ、御許に帰って生きる道を開かれたのです。
 イースター、復活祭は、御国の祝宴です。イエスさまが復活されたことを感謝し、お祝いすることは、私たちが罪と死から救われ、イエスさまの命に与る喜びです。実は、神さまご自身が、私たち放蕩息子の帰還を心から喜び、お祝いしてくださる、その祝宴に与ることなのです。この喜びを、多くの方と共に味わいたいと願っています。
                              (補教師:北山 琢)

3月の御言葉

悲しむ人々は、幸いである、
 その人たちは慰められる。
   (マタイによる福音書 5章 4節)

慰 め                   牧師:屼ノ下照光
私が担当している松阪ルーテル教会では、月一回、「詩画と聖書に親しむ会」が開催されています。毎回、星野富弘さんの詩画の一編を選んで鑑賞し、参加者が互いに感想などを述べ合い、また、聖書のみ言葉を聞いています。
今年、2月の「詩画と聖書に親しむ会」では、クリスマスローズのきれいな絵にそえて、次のような詩がありました。
      悲しい時に
      悲しめる 心を持っている
      あふれ出る 涙がある
      なんという 慰めだろう
クリスマスローズの花言葉のひとつに、「慰め」があります。この花言葉を知って、星野さんがクリスマスローズの絵に、なぜこのような詩をそえられたかが納得できました。
私は、この詩に触れて、イエスさまが語られたみ言葉を思い起こしました。
「悲しむ人々は、幸いである、
         その人たちは慰められる」 (マタイによる福音書 5章 4節)
私たちは、生きている中で、さまざまな悲しみや嘆きを経験します。そのような「悲しむ者」は幸いであるとイエスさまは語っておられます。たいへん不思議な言葉です。「慰める」と訳されているギリシア語「パラカレオー」という言葉には、「招く」、「呼び寄せる」という意味があります。悲しむ人々こそが、神さまに呼び寄せられ、招き入れられて、包み込まれるというような印象の言葉ではないでしょうか。「悲しむ」というギリシア語「ペンソウ」という言葉には、「嘆く」、「死を悼む」という意味もあります。愛する者の死は、悲しみの極みです。その悲しみの極みの中にある人々にイエスさまは、「悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる」と語っておられます。ある女性のご召天50日の記念の祈りの時、私は、ご遺族の方々にこのイエスさまのみ言葉を紹介して、「不思議な言葉ですが、ほんとうに深く悲しむところでしか得られない慰めがあるのではないかと思います」とお話させていただきました。愛する者の死は、確かに悲しみの極みですが、キリストの復活に与る信仰者は、死のかなたにも、キリストと共に永遠に生きるという希望が与えられています。その希望のゆえに、私たちは、愛する人との別れにおいて、深く深く悲しみ、涙を流してよいのです。その悲しみの極みにおいてこそ、主イエス・キリストは、悲しむ者を、そのふところに呼び寄せ、しっかりと抱きとめてくださるのです。
星野富弘さんの、このクリスマスローズに寄せた詩は、悲しみや涙について、私たちの心を新たに開かせてくれる言葉のように思いました。「悲しむことができる」、「涙をながすことができる」そのことこそが慰めであると語られています。私は、「悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる」と語られたイエスさまの愛の御心を、しっかりととらえておられる星野さんに、深い感動をおぼえました。私自身、星野さんのこの詩に触れて、あらためて、イエスさまのみ言葉の深みに触れる思いがしました。この詩に触れることができたことを感謝しています。

2月の御言葉

 「私の目には,あなたは高価で尊い」   イザヤ書43章4節

 すばらしいキミへ
 スフィンクスの有名な謎かけに、
「朝は4本足、昼は2本足、夜になると3本足になるものは何か」というものがあります。
 通りかかる人に謎をかけ、正解できなかった者は食べてしまったということです。
オイディプスが、「それは人間だ。赤ん坊の時は、はいはいをするから4本足、成長すると2本足で歩き、老年になると杖をつくので3本足だ」と解き、スフィンクスを退治したという神話です。
 私たちは、自分自身に対して、どんなイメージを持っているでしょう。自分の足で立ち、思うところに自由に行き、なんでも自分の力でなすことが出来る。それこそが本来の自分なのでしょうか。親や大人に頼らなければ何も出来なかった赤ん坊の頃はどうでしょう。また、年を重ねて、今まで出来たことがだんだん出来なくなれば、もはや自分ではなくなるのでしょうか。
 あるいは、様々な不自由さを抱えて、出来ないことが多い人のことを憐れみ、自分はそうなりたくないと思うでしょうか。

『すばらしいキミへ』という大好きな讃美歌があります。

  人に何を言われても だれかに無視されても   それでも キミはすばらしい
  自分を飾らなくても  人の目を引かなくても   それでも キミはすばらしい
  キミが生まれる前から キミをつくられた方が
   『キミはすばらしい、すばらしい』と言われたから

  いつも頑張れなくても  何度も失敗しても それでもキミはすばらしい
  心が疲れ果てても  自分がイヤになっても それでもキミはすばらしい
  キミが生まれる前から キミをつくられた方が
   『キミはすばらしい、すばらしい』と言われたから

  たとえいつの日かキミが 何も出来なくなっても それでも キミはすばらしい

 今年も総会を迎え、私たちの教会はまた新たな一歩を踏み出します。神さまは、私たちをかけがえのないものとしてこの世にあらしめ、イエスさまを身代わりにされるほどまでに愛してくださいました。私たちが何か出来るからではなく、何も出来なくても、私たちの存在自体を、変わらず愛し続けてくださいます。その神さまの愛を受けて、お互いの存在を大切にする教会として、今年も歩んでいきたいと思います。 (補教師:北山 琢)

 



1月の御言葉

初めからのことを思い出すな。
昔のことを思いめぐらすな。
見よ、新しいことをわたしは行なう。
今や、それは芽生えている。
あなたたちはそれを悟らないのか。
わたしは荒れ野に道を敷き
砂漠に大河を流れさせる。
 
     (イザヤ書 43章 18〜19節)


何かが起ころうとしている
 みなさん、私たちの主の年、2019年の新年、あけましておめでとうございます。
 この新しい年、主なる神さまが、私たちの教会とその交わりを豊かに祝福してくださるよう、お祈りいたします。
昨年秋から新年にかけて、桔梗が丘ルーテル教会では、大きな変化の時となりました。北山琢先生は、10月1日付でこの教会の補教師に就任されました。11月23日には結婚式を挙げられ、12月にはめぐみ姉と共に牧師館に移られました。私、屼ノ下牧師は、11月1日付で四日市ルーテル教会牧師も担当することになり、11月19日には四日市ルーテル教会の牧師館に引っ越ししました。また、2010年10月から私たちの教会でご奉仕くださった栗かおり先生は、この1月1日付で帝犹灰襦璽謄覿飢颪療粗算佞暴任されました。今後、住居も帝塚山教会に移し、帝塚山教会を中心に大阪地区でご奉仕されることになります。先生の長年のご奉仕に深い感謝をおぼえます。そのような訳で、この教会の働き、牧会は、北山琢補教師が中心になって担ってくださいます。栗かおり先生の新しいお働き、北山琢先生のご家庭とお働きに、主なる神さまの大いなる祝福が注がれますよう、お祈りください。
 大きな変化に、私たちは不安や戸惑いをおぼえることがあります。しかし、一方で変化は、期待や希望をももたらしてくれます。私たちの教会の今回のこの大きな変化を、あらたの希望のチャンスととらえたいと思います。
 イザヤ書40章以下には、バビロン捕囚という大きな苦しみを経験した民に、捕囚からの解放のメッセージが告げられ、新しい時代の到来が語られています。50年以上も、異国の地で捕囚として歩み、疲れ切り、神さまに見捨てられたと絶望していた人々に、主なる神さまは、預言者をとおして、「見よ、新しいことをわたしは行なう。今や、それは芽生えている」と語りかけてくださいました。
私たちのこの教会に、今、新しい何かが起ころうとしています。主なる神さまが、この教会に、新しいことをなそうとしておられます。神さまが備えてくださる希望をいただき、神さまに期待して、この新しい年の歩みを始めましょう。(牧師:屼ノ下照光)

12月の御言葉

そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録せよとの勅令が出た。‥‥‥
ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めてに子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。     (ルカによる福音書 2章 1節、4〜7節)


               貧しさを負う救い主 
クリスマスおめでとうございます。
神の言葉、聖書が伝えるクリスマスの出来事は次のとおりです。皇帝アウグストゥス(BC27〜AD14在位)の支配のもとでローマ帝国全土で人口調査が行われました。皇帝アウグストゥスは、紀元前31年にアントニウスとムクレオパトラの連合軍を破って、最初のローマ皇帝となりました。この人口調査は、徴税と徴兵のためでした。当時ユダヤはローマの属国であり、人々は自分の生まれ故郷で登録しなければなりませんでした。
 若いヨセフとマリア(17,8歳と13〜15歳)は、ガリラヤのナザレからユダヤのベツレヘムまでの140劼らいのところを旅しなければなりませんでした。身重のマリアにとっては非常に厳しいものでした。ここに、権力者の都合によって振り回される民衆の姿を見ます。長い旅の末にベツレヘムに着いた彼らには、疲れた体を休める場所もなく。粗末な家畜小屋で夜露をしのがなければなりませんでした。そこでマリアは赤ちゃんを産みました。神の独り子の誕生です。
 聖書は、貧しく、みすぼらしい中で神の御子が誕生したことを報告しています。ここには本来、きらびやかであたたかな宮殿で生まれるべき方が、自らを低くして貧しい誕生をされたということが語られているのではありません。神の御子の誕生は、神さまがどんなに私たち人間を愛し、大切にしてくださっているかということの現れです。聖書が語る神の愛は、力ある者、富や権力を持てる者が、テレビ・ドラマの水戸黄門のように身をやつして民衆の中に入ってお情けを与えるなどといったものとはまったく違うのです。神さまがご自身の「愛」を現そうとされたとき、このような姿にならざるを得なかったということなのです。
 ここには、力をもって抑えつけたり脅したりして人を従わせようとする姿勢は見られません。抑えつけたり脅したりするのは決して「愛」ではありません。当時、ローマ皇帝は、その強大な権力のゆえに「神」とあがめられました。彼は、強大な軍事力と富とによって人々を抑えつけ、自ら神のようにふるまいました。しかし、まことの神さまは、貧しさとみすぼらしさの中に、ご自身の「愛」を現されました。神の独り子イエス・キリストは貧しい家畜小屋での誕生から惨めな十字架の死にいたるまで、一貫して神の愛を語り、その愛を注ぎ続けてくださいました。
 私たちは、それぞれに自分自身を世界の中心にしようとする「内なる帝国」を持っています。自らその帝国の皇帝になろうとします。その内なる帝国、エゴイズムを聖書は「罪」と呼びます
そして、それが私たちを苦しめています。そこでは、互いに尊敬し合い、感謝し合い、信頼し合い、赦し合い、助け合い、励まし合い、支え合い、喜び合うという「愛と平和」は失われてしまっています。今日の大きな問題、幼児虐待、いじめ、ドメスティックバイオレンス、パワーハラスメントなどは、まさにそのような愛が失われた結果ではないでしょうか。
神の独り子イエス・キリストは、そのような「愛」を失っている私たちのところに、最も貧しく、最も低い姿でおいでになり、飼い葉桶の中から、「ここに愛がある、ここに平和がある。あなたもここに来て、その愛を受け取りなさい。その愛をもって出て行きなさい」と語りかけてくださっているのです。  (屼ノ下 照光)

11月の御言葉

御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。
                   (競謄皀 4章 2節)


               御言葉を宣べ伝えなさい

 北山琢先生は、10月1日付で桔梗が丘ルーテル教会の補教師に就任され、21日(日)の礼拝の中で補教師就任式が執り行われました。11月23日には、結婚式も執り行われます。ご結婚後、お二人は牧師館に移られ、新しい歩みを始められます。近畿福音ルーテル教会に新しい教職が誕生したこと、そして、桔梗が丘ルーテル教会に新しい働き人が与えられたことは大きな喜びです。共に、私たちの神さまに感謝いたしましょう
 補教師就任式では、テモテへの手紙二4章1〜2節、5節の御言葉が読まれました。
 「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えなさい。どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい」
 就任式では、北山琢師が、「補教師に就任し、忠実にその職務を行い、福音宣教のわざに励むように努めることを約束します」との約束を力強く表明されました。
教職の就任式では、就任者の誓約に続いて、教会員にも誓約が求められます。そこでは、司式者によって次のような問いかけがなされました。「桔梗が丘ルーテル教会の愛する兄弟姉妹の皆さん、あなたがたは今、北山琢補教師の厳かな約束の言葉を聞きました。そこで私は、あなたがたに尋ねます。あなたがたは、主イエス・キリストによって、あなたがたのために立てられ、与えられた北山琢補教師を受け入れ、彼のために祈り、主にある愛と尊敬とをもって交わりを築くことを約束しますか。また、北山琢補教師と共に、主に仕え、主に従うことを約束しますか」。これに対して会衆席からも、「はい、神の助けによって約束いたします」との応えが返ってきました。
 私は、就任式の司式の任を与えられた時には、いつもこのところで深い感動をおぼえます。御言葉を宣べ伝える福音宣教は、決して牧師や教職だけでできるものではありません。それは、主イエス・キリストの枝、群れとされた教会全体で行なうものなのです。
会衆の誓約の言葉にありましたように、どうぞ、北山琢補教師の働きとこれから築かれる家庭のためにお祈りください。また、主にある愛と尊敬をもって北山先生と共に、主に仕え、主に従ってまいりましょう。
どうぞよろしくお願いいたします。          (屼ノ下照光)

10月のみ言葉

ハレルヤ
新しい歌を主に向かって歌え。
主の慈しみに生きる人々の集いで賛美の歌をうたえ。
                  (詩編 149編1節)


               賛美の歌を歌え

 10月28日(日)は、宗教改革主日賛美礼拝です。この日、讃美歌を中心とした礼拝をまもります。みんなで、心から神さまを賛美しましょう。
 マルティン・ルターによる宗教改革は、礼拝をも大きく変えました。彼は、礼拝の中に、会衆が自国の言葉で讃美歌(コラール・衆賛歌)を歌うことをはじめました。ルター自身、たくさんの讃美歌を作詞作曲しています。
 ある牧師さんは、「キリスト教の礼拝の最大の魅力は『歌う』ということにある」と語っておられます。私もそう思います。讃美歌を歌うということがなかったら、私たちの礼拝は、ほんとうに味気ないものになるだろうと思います。
 
 讃美歌をうたうということは、「歌による神さまへの賛美」であり、「歌による神さまへの祈り」であるということができます。キリスト教会は、その歴史を通してたくさんの讃美歌を生み出してきました。また、福音宣教の拡大の中で、世界中のさまざまな国、民族の音楽をもってすばらしい讃美歌を生み出してきました。ルーテル教会の合同讃美歌委員会では、来年秋に、『教会讃美歌補遺機戮出版される予定です。この歌集には、ルターの曲、公募によって採用された曲、そして日本の新しい讃美歌が紹介されることになっています。この『教会讃美歌補遺』は、全部で3冊発行される予定になっています。世界中の新しい讃美歌も紹介されます。
 
 讃美歌は、個人の信仰生活においても、大きな慰めになったり、励ましになったりします。それぞれに愛唱の讃美歌があると思います。ある牧師さんは、愛唱の2〜3曲は、讃美歌集を見ないでも歌えるものがあれば、大きな慰めになるだろうと勧めておられます。
 そして、何よりも、礼拝の場で兄弟姉妹たちと声を合わせて歌うことは、信仰生活の大きな喜び、力となります。礼拝の場における讃美歌は、兄弟姉妹が共に神さまにささげる祈りとなります。そのような讃美歌を共に歌うことを通して、私たちは神さまへの信仰を互いに確認し合い、神さまからの恵みを分かち合うのです。また、祈りとしての讃美歌を共に歌うことを通して、私たちは「神の民」として形づくられ、信仰が新たにされるのです。いにしえの信仰者も、「主の慈しみに生きる人々の集いで賛美の歌をうたえ」と勧めています。
 10月28日(日)の賛美礼拝に、お友だちや近所の方々を誘っておいでください。なお、この日の礼拝後には、ミニ・バザーも予定されています。

                                (屼ノ下照光)


TOPへ


  • 教会のご案内

    桔梗が丘ルーテル教会

    (近畿福音ルーテル桔梗が丘教会)
    牧師 : 屼ノ下 照光
       〈はげのした てるみつ〉

    神の栄光をたたえて生きる

    桔梗が丘ルーテル教会
  • 記事のページ内表示件数

    記事のテーマ別

    記事の月別アーカイブ

    calendar

    S M T W T F S
        123
    45678910
    11121314151617
    18192021222324
    25262728293031
    << August 2019 >>

    links

    Booklog

    Weekly Schedule

    関連情報

    にほんブログ村 地域生活(街) 中部ブログ 名張情報へにほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへにほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教 福音派へ
    Google


    mobile<携帯サイトQRコード>

    qrcode