10月の御言葉

涙と共に種を蒔く人は
喜びの歌と共に刈り入れる。
種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は
束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる。
              (詩編 126章5〜6節


                 収穫の喜び
 
 NHK朝の連続ドラマ「ひよっこ」を楽しみに見ていました。1964年〜1967年頃の時代が描かれており、「集団就職」なども描かれていました。同じ時代に田舎の中学を卒業して大阪に出てきた私には、懐かしくもまたほろ苦いものを思い出させるドラマでした。このドラマの中に、主人公の田舎での田植えや刈り入れの場面もありました。今日のように機械化されていない時代の田んぼの風景にも郷愁をかられました。

 詩編126編5〜6節の、私がこの季節にいつも思い起こすみ言葉です。朝の散歩の折、刈り入れが終わったばかりのあの田んぼの匂いに触れるとき、このみ言葉を思い起こします。そして、このみ言葉は、遠い昔の田舎の風景へと私を連れ戻してくれるのです。

 子どものころ、秋のひんやりとした早朝、家族、親戚総出で山の田んぼに出かけました。大人たちが、鎌で刈り入れて束ねた稲穂を、子どもたちが背負って運びました。お昼に草の上でみんなでいただいたご飯のおいしさ、楽しさもはっきりと思い起こすことができます。一日の仕事が終わって、稲束を荷車に山のように積んで家に帰った時の夕焼けの美しさも懐かしく思い出します。

 詩編126編は、バビロン捕囚という想像を絶する苦しみを経験した人々に、神さまによる解放が告げられたという喜びを歌っています。
      主がシオンの捕らわれ人を連れ帰られると聞いて
      わたしたちは夢を見ている人のようになった。
      そのときには、わたしたちの口に笑いが
      舌に喜びの歌が満ちるであろう。
      そのときには、国々も言うであろう
      「主はこの人々に、大いなる業を成し遂げられた」と。
 
 9月に、私たちの教会でも“敬老の交わり礼拝”と敬老お祝い会をしました。70年、80年の年を重ねきた方々は、今まさに刈り入れ、収穫の喜びの時を迎えておられるのではないでしょうか。たとえ、その人生が、泣きながら、涙と共にあったような歩みであったとしても、神さまが確かにそなえてくださる豊かな収穫の秋があることをこのみ言葉は語っているように思います。                   
                            (牧師 屼ノ下照光)

7月の御言葉

涸れた谷に鹿が水を求めるように
神よ、わたしの魂はあなたを求める。
神に、命の神に、わたしの魂は渇く。
いつ御前に出て、神の御顔を仰ぐことができるのか。
昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。
人は絶え間なく言う
「お前の神はどこにいる」と。
わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす。
喜び歌い感謝をささげる声の中を、祭りに集う人の群れと共に進み
神の家に入り、ひれ伏したことを。
なぜうなだれるのか、わたしの魂よ
なぜ呻くのか。
神を待ち望め。
わたしはなお告白しよう
「御顔こそ、わたしの救い」と。
わたしの神よ。          (詩編 42編2〜7節)



                神を待ち望め 
            
 ある日曜日の午後、美杉教会に向かって車を走らせていたとき、二頭の鹿が道路沿いの川におりていくのを見ました。そのとき、私は、この詩編42編のみ言葉を思い起こしました。
 詩編は、いにしえの信仰者たちの心の深いところからの祈りです。そこには、神さまへの賛美や感謝、神の救いや憐れみを求める魂の奧から絞り出すような呻きや叫び、また、神への強烈な訴えなど、実に、人間の正直で率直な思いが表されています。私は、詩編を用いて、私の祈りとして、神さまに私の思いや願いを訴えることがあります。
この詩編42編は、「嘆きの歌」というジャンルに含まれるものです。この詩人は、非常に大きな苦しみ、または、悲嘆を経験しているようです。そのうえに周囲からは、「お前の神はどこにいるのか?お前を助けてくれる神はいないのか」という、心ない言葉を浴びせられていました。その苦しみの中で、彼は嘆きながらも、主なる神さまに、自分の思いを訴え続けているのです。彼は「涸れた谷に水を求める鹿のように、神を求めている」と、その心の奥深いところからの訴えを表現しています。厳しい苦しみの中でこの詩人は、信仰の友、仲間たちと共に、神の家(神殿)において、感謝と賛美をささげた祭り、礼拝を思い起こしています。
 そして、自分の魂に向かって次のように歌っています。「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ / なぜ呻くのか / 神を待ち望め / わたしはなお告白しよう / 「御顔こそ、わたしの救い」と / わたしの神よ」。42編と43編は、もともと一つの詩であるといわれていますが、そこではこのフレーズが3回繰り返されています。
厳しい状況の中で、この詩人は、彼自身に向かって、「神を待ち望め、御顔こそ私の救い」という信仰を与えられて、神さまを賛美しているのです。
 もうどうすることもできないというような苦しみの中で、神さまを待ち望むことができる人はさいわいです。私たちもまた、この詩人が歌っているように、兄弟姉妹たちと共に喜び歌い感謝をささげる礼拝の場が与えられており、共に神を待ち望むものとされています。そのことを感謝しましょう。                牧師:屼ノ下照光

6月の御言葉

時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。
  あなたを祝福する者をわたしは祝福し、
  あなたをのろう者をわたしはのろう。
  地のすべてのやからは、
  あなたによって祝福される」。  (創世記 12章1〜3節・口語訳)



              祝福の基とされている私たち
     
毎月2回行っている「聖書に触れる会」では、ちょうど“アブラハム物語”が始まりました。
 神さまは、ご自身の愛を人々に示し、その救いのみわざをすべての人に知らせるために、人を選び、用いてくださいます。アブラハムはそのために選ばれ、召されました。罪のゆえに混乱し、ただ滅びるばかりの人間を、神さまはなおも愛し、救いの手を差し伸べてくださっていることを示すために、アブラハムを愛し、選ばれたのです。それがここでは「祝福の基となる」という言葉で表現されています(新共同訳では「祝福の源」)。“祝福”の反対は“のろい”です。神さまは私たちの人間のわざわい、呪いを願っておられるのではありません。実に私たちが祝福を受けることを願っておられます。神さまは、アブラハムを愛し、選んで祝福し、彼を通して神さまの祝福が全人類に広がることを願われたのです。それゆえ、アブラハムは“信仰の父”と呼ばれています。信仰によってアブラハムの子孫とされている私たちもまた“祝福の基”となるように選ばれ、救いをいただいています。なぜ神さまが私を選ばれたのか。それは聖書に語られているように、「ただ神の愛による」としか言いようがありません。しかし、何のために選ばれたのかというならば、それは、私たちが、この私が“祝福の基、祝福の源”となるためであるということです。すなわち、私にあらわされた神さまの愛を指し示し、救いの喜び、祝福を告げ知らせ、それを撒き散らすためであるということです。
 
 昨年の2月から私は毎朝の散歩を日課としています。森や公園の中の約1時間の散歩はほんとうに気持ちの良いものです。この散歩はまた、私の祈りの時にもなっています。いつもお話ししているように、私の祈りはいつも、「主キリストよ、わたしを憐れんでください、キリエ・エレイソン」ですが、最近では、「主キリストよ、この世界を憐れみ、あなたの平和を注いでください」と祈りながら、歩いています。また、「神さま、今日、わたしが出会う一人ひとりに、あなたの祝福と平和がありますように」と繰り返し祈っています。神さまの祝福を祈るということ、それは、“祝福の基”である私たちのたいせつな務めなのです。                         (牧師:屼ノ下照光)

4月の御言葉

イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。 (ヨハネによる福音書11章25〜26節)

               復活の希望に生き        

 筋委縮側索硬化症という難病を背負われた川口武久兄は、厳しい闘病の中で、桔梗が丘ルーテル教会に導かれ、1981年10月29日に、エドラン牧師から洗礼を受けられました。川口兄は、その後、四国の松山ベテル病院に移られ、「アミトロの会」を立ち上げて、同じ病気に苦しむ人たちとその家族を励まし続けられました。その川口兄も1994年9月に53歳のご生涯を終えられました。
 彼は、闘病中に不自由な手でカナタイプを打って、4冊の本を著されました。それらの本を読みますと、日毎に病に蝕まれる中、確実に迫ってくる死を見つめながらの彼の闘病の日々を支えたのは、主イエスさまに対する信仰であり、主イエスさまのご復活であったことがわかります。川口兄の『ひとり居て一人で思う独り言』というエッセー集の中に、「医学生との対話」という文があります。ベテル病院で研修した広島大学の女性医学生と対話し、彼女の質問に応えたという内容です。その中に次のような文がありました。

 「次に、私にとって病気とは何なのか、と鋭い質問が飛び出した。私は、この病気になるまで病気らしい病気をしたことがなかっただけに、そのダメージは大きく、ショックは計り知れないものだった。それだけに受容するまでには、さまざまな葛藤を繰り返した。その結果、病気は人生最大の試練であり、来世へのステップだと受け止めるに至った。死は無であるという人には一笑にされそうであるが、信じられる者には幸いだろう。この試練を克服してこそ、人生の総決算ができて、永遠の命の門に辿り着けると確信している。だから死は、それほど不安でもなく恐ろしくもない。ただ神によしとされる日まで、その使命が果たせるかが心配であり、苦悩するところである。これは信仰の賜物だ。彼女にも信仰を強く勧めた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は決して死ぬことがありません』」(ヨハネ11章25節・新改訳聖書)

 この本には川口兄の短歌もたくさん掲載されています。たいへん深い歌もあれば、思わず笑ってしまうような歌もあります。その中に、次のような歌がありました。「復活をひたすら信ず喜びも不治の病の賜物なりし」。ここにも、彼の確かな“復活信仰”を見ることができます。
 難病との厳しい闘いの中で、川口武久兄は、その独り子をお与えくださるほどの神さまの愛に受け入れられていることを知り、独り子イエス・キリストの復活のゆえに、死のかなたにある復活のいのちの希望をもって、その厳しくも充実した人生を歩み続け、御国へと凱旋されたのです。
川口兄と同じ信仰を与えられている者として、私たちも、主が御国に召してくださるその時まで、この“復活の希望”の中を、それぞれの大切な人生を歩み続けたいと願わされます。                            牧師:屼ノ下照光

2月の御言葉

イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」。そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。
                    (マルコによる福音書10章13〜16節)



               イエスさまの笑顔

 マルコ10章のイエスさまが子どもたちを祝福されるこの聖書の場面は、私の大好きなところです。ここを読むたびに、私はイエスさまが満面に笑みを浮かべておられるようすを想像します。聖書にはイエスさまが笑ったという記述はありませんが、ここには確かに愉快そうに笑っておられるイエスさま、あふれる笑顔のイエスさまがおられます。イエスさまの笑顔の中で子どもたち、幼な子たちは、神の国にどっぷりとつかっています。
 
 私は、近畿福音ルーテル教会の伝道実習生として歩み始めた44年前から今日まで、教会学校や保育園、幼稚園で、多くの子どもたち、幼な子たちとふれあってきました。そして、そのことをたいへん大切なこととして受け止めてきました。幼な子たちとのふれあいの中で、罪深い私もまた神の国の入口に立つことが許されてきたように思います。これからも、神の国にどっぷりとつかっている幼な子たちとのふれあいを大切にしていきたいと思います。
マルチンルターは、幼な子たちについて次のような言葉を残しています。

「幼い子どもらの信仰といのちにまさるものはない。彼らはみことばをそのまま受け入れるばかりだからである。われわれ年寄りの愚か者は、地獄と、地獄の業火を持っており、みことばについて議論するが、彼らは純粋な信仰で議論などせずに信じているのだ。それでも、最後には、彼らのように、われわれもみことばにのみ頼らなければならないのであろう」。(『卓上語録』1531年)

 私たちの教会にも、毎週、子どもたちが元気にやってきて、みことばを聞き、喜びの讃美を歌っています。この子どもたちひとり一人をおぼえてお祈りください。また、教会学校の教師として大切なご奉仕をしてくださっている兄弟姉妹たちをおぼえて、お祈りください。  
                             (牧師:屼ノ下照光)

1月のみ言葉

主の慈しみは決して絶えない。主の憐みは決して尽きない。
それは朝ごとに新たになる。 (哀歌 3章22〜23節)


             夕べとなり、朝となった

 みなさん、私たちの主の年2017年の新年あけまして、おめでとうございます。
私たちが神の言葉として大切にしている聖書は、その最初のところで、「初めに神は、天地を創造された」(創世記1章1節)と語りかけています。
 年が改まったとはいえ、何らかわることのないように時間は過ぎ去っていきます。今日のこの世界とこの日本の状況を見る時、ほんとうに“混沌とした闇”がさらに深くなっているように思います。政治的な不安、経済的な問題、自然災害などに見られるように、“深い闇と淵”がこの世界を覆っているように見えます。聖書は次のように語っています。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面に動いていた」(創世記1章2節)。口語訳聖書では、「神の霊が水のおもてをおおっていた」と訳されています。どんなに暗く、むなしく、混沌で、深い淵のような状況であっても、主なる神はそこを覆って、支え、守り、愛してくださっているという信仰がここに語られています。5節の「夕べがあり、朝があった」語られています。この言葉は、6日間にわたる神の創造の働きごとに記されています。この世界を造られた神は、この世界と共に、“時間”をも創造されたことを、語っているように思います。

 暮れから新年につながる時間の中で、「来年こそは平和であるように」、「今年こそはおだやかな年であるように」という声が聞こえてきます。昨年4月の熊本大地震を経験し、ヨーロッパからのテロ事件の報道を耳にしてきた私たちは、「今年こそはおだやかな年であるように」という思いを強くします。しかし、2016年の大晦日から2017年の新年にいたる時間の流れは、「夕べがあり、朝があった」という時間の流れにすぎません。「夕べがあり、朝があった」という時間の流れの繰り返しの中で、私たちは、大きな喜びや楽しみと共に、深い悲しみやほんとうに辛い苦しみをも経験します。「昨年は大変つらいことがあったが、今年は、喜びに満ちた平安な日々ばかりである」ということにはならないのです。
 しかし、「夕べがあり、朝があった」という主なる神が創造された時間の流れの中に、確かに、神の大きな恵み、祝福があふれていると私たちは信じています。「夕べがあり、朝があった」という時間の流れの中で大きな苦しみや深い悲しみを経験することもあるだろうと思われますが、決して神に見放されているのでも見捨てられているのでもありません。大きな苦しみや深い悲しみのそのさ中に、主なる神の慈しみと憐れみとが豊かに注がれているというのが、聖書が語る約束です。
 バビロン捕囚というほんとうに大きな苦しみを経験した人々に対して、預言者は次のように語っています。

主の慈しみは決して絶えない。
主の憐れみは決して尽きない。
それは朝ごとに新たになる」    (哀歌3章22〜23節)

 「夕べがあり、朝があった」ということの繰り返しのような日々の歩みですが、そこには、「朝ごとに新たになる」神の大きな恵み、憐れみ、祝福に満ちたお導きがあります。神の愛の現われであるイエス・キリストの十字架と復活のできごとが、そのことの確かな保証です。
 2017年の新しい年、「夕べがあり、朝があった」という毎日も、「朝ごとに新たになる」という主なる神さまの慈しみ、憐れみを信じて、共に歩ませていただきたいと思います。
                               牧師 屼ノ下照光

12月のみ言葉

      闇の中を歩む民は、大いなる光を見
      死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。(イザヤ書 9章1節)

      すべての人を照らすまことの光りがあって、世にきた。
                     (ヨハネによる福音書 1章9節)


            「クリスマスって何の日」    
     
 2011年11月末から12月にかけて、私は、当時の議長、末岡成夫先生と杉岡直樹牧師と共に、シンガポール、タイ、オーストラリアを訪問し、各国のルーテル教会の代表者たちと会う機会が与えられました。旅行の間、天候にも恵まれ、シンガポール、タイは気温30度以上の夏日、オーストラリアも夏に向かう季節で、ずっと半袖で過ごすことができました。ビーチでは泳いでいる人たちもいました。そのような中で、街中にはクリスマスツリーが飾られていました。むし暑いシンガポールで雪の結晶をあしらった飾りが吊り下げられているのを見たときは、少し不思議な感じがしました。
 
 オーストラリアでは、ルーテル教会の本部に勤めておられるグレナス・ハートウィッチさんの家に夕食に呼ばれました。彼女は3年前に近畿福音ルーテル教会を訪れてくださいました。この夕食にはオーストラリア・ルーテル教会の二人の若い牧師も招かれていて、おいしいワインと料理をいただきながら楽しい時を過ごしました。彼らと話していて驚いたことがありました。オーストラリアでもクリスマスが何の日であるかを知らない若者たちが多くなっているということでした。テレビの街頭インタビューで、「クリスマスは何の日ですか」という質問に、「プレゼントの日」、「パーティーの日」と答える若者がたくさんいるということでした。

 昔、ノルウェー人宣教師が、和歌山の田舎でクリスマスの案内のチラシを配っていた時、ある漁師さんが、「教会でもクリスマスをやるのけ」と聞いてきた、という笑い話をしてくれたことがありましたが、最近では、それが笑い話でなくなってきているように思います。
 
 神さまが、闇の中を歩む人間、死の陰の地に住む人間(イザヤ9章1節)を愛するあまりに、まことの“光”である独り子イエスさまを与えてくださったのがクリスマスです。イエスさまの暗く冷たい家畜小屋でのお誕生は、そのことをあらわしています。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」(イザヤ9章5節)と聖書は語っています。

 クリスマスは、あなたと私のために、神さまの独り子イエスさまが生まれてくださった日です。オリーブの会クリスマス会、子どもクリスマス会、キャロリング、クリスマスイブ礼拝、クリスマス家族礼拝、祝会に、お友だちを誘って、教会においでください。みんなで、私たちのために生まれてくださったイエスさまのご降誕をお祝いいたしましょう。
                                 屼ノ下照光

11月のみ言葉

互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。          
                 (ローマの信徒への手紙 13章8節)


              「愛の貸し借り」

 私は、田舎の中学を卒業した15歳のとき大阪に出てきました。もう50年も昔の話です。理容師の見習いとしてある店で住み込みで働いていました。その店の主人は新入りの私たちに、「互いに金の貸し借りだけは絶対にしてはいけない」と語りました。俗に「借りるときは貸主の顔が仏に見えるが、返すときは鬼の顔になる」と言われるように、金の貸し借りによって人間関係が崩れ、壊れてしまうということはよくあることなのです。それゆえ、職場の中での金の貸し借りはしてはならないと厳しく戒められたのです。

 ローマ 13章8節のみ言葉は、新改訳聖書が、だいたい原文に忠実に訳しているとされています。新改訳では、「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です」となっています。どんなことにも貸し借りがあってはならないが、「愛し合う」ということだけは別であるとパウロは語っているのです。借金が人間関係をだめにしてしまうことがあり、生活を壊してしまうということがあります。しかし、「愛は隣り人に害を加えません」(10節・口語訳)とパウロは語っています。

 マタイ18章21〜35節には、主イエス・キリストによってあらわされた神の愛について主イエスさまがたとえをもって語っておられます(『仲間を赦さない家来』のたとえ)。そこでは主イエスさまの十字架の愛によって赦された私たちの罪が、1万タラントンというとてつもなく大きな借金として語られています。とても返済することのできない借金を、神はすべて御子イエスによって赦し、チャラにしてくださいました。主イエスさまは、それをすべて返済しなさいと要求しておられません。それゆえ、「あなたがたも、互いに赦し合え、愛し合え」と語っておられます。ある宣教師は、「愛し合う」ということを説明して、それは「尊敬し合うこと」「励まし合うこと」「感謝し合うこと」「赦し合うこと」であると説明しています。分かりやすい表現だと思います。

 愛の貸し借りは決して返済を強要されるものではありません。だからこそ、愛の貸し借りだけは大いにしなさいとパウロは語っているのです。返済を求めるところに愛の崩れが生じます。「こんなにしてあげたのに‥‥‥」、「わたしはこんなに愛しているのに‥‥‥」などと言って返済を求めるなら、“愛”は“愛”でなくなってしまいます。あるいは、「これで、あの人に対する借りはすべて返してしまった」などと言うこともできません。そんなことはできるはずがないのに、もし、返してしまったと思うなら、その時、互いの関係はそこで断ち切られてしまいます。愛の負債、負い目を互いに負い続けるところに、ほんとうの愛の関係が保たれるのでしょう。
もちろん、借りたものは返したいという思いは当然出てきます。そのときは、喜んで返そうとすればよいのです。さらには他の人たちにその愛を分けたらよいのだと思います。しかし、決して強要されるものではありません。互いが、愛を貸して返済を求めず、愛をすなおに借りて喜ぶ。それこそが、「律法を全うする」(8節)ことであり、神の恵みに応えることなのです。                      (牧師 屼ノ下照光)

10月のみ言葉

ハレルヤ
新しい歌を主に向かって歌え。
主の慈しみに生きる人の集いで賛美の歌をうたえ。

                (詩編149編1節)

               「ハレルヤ」
 10月31日は“宗教改革記念日”です。1517年、ドイツの修道士マルティン・ルターは、当時教会で販売されていた“贖宥券(免罪符)”に対して、それがほんとうに神の救いと恵みを人々にもたらすものであるのかということに疑いを抱きました。そこで、そのことについての討論を呼びかけるための「95個条の提題」を、10月31日に教会の扉に貼り付けました。これが宗教改革の始まりでした。
 ルターによる宗教改革は礼拝の改革でもありました。彼は聖書をドイツ語に訳して誰もが自分の言葉で聖書を読むことができるようにしました。それと同時に、讃美歌をも民衆の手に戻したのです。会衆が自国の言葉で歌うということは、それまでなされていませんでした。この会衆がうたう賛美歌を“コラール(衆賛歌)”と呼んでいます。ルター自身も35編くらいのコラールを作っています。その中には彼自身が作曲したものもありますが、また、民衆の間で当時流行っていた歌や民謡の旋律に聖書の言葉をつけたものなども多くありました。これによって、人々は聞きなれた旋律で神を賛美する歌を歌うことができるようになったのです。教会讃美歌の23番、450番はルター作詞作曲の代表的な讃美歌です。
 ルターは、信仰生活における“音楽”をたいへん大切なものと考えていました。彼自身、リュートを弾きながら、家族や学生たちとともに、よく歌っていたようです。彼は音楽について次のように語っています。
 「音楽は、神の美しい、すばらしい贈り物である。聖アウグスティヌスは、音楽を楽しんでいる自分自身に気がつくと、いつも良心で悩んだ。彼は音楽を罪深いものだと考えたのである。しかし、彼はよりぬきの人物だったし、もしも今日生きていたなら、われわれと意気投合したことであろう。私は音楽を軽蔑する変人どもに何の用もない。なぜなら、音楽は神の賜物だからである。音楽は悪魔を追い払い、人々を晴れやかにする。人々はそれによってあらゆる怒りや、不貞や、傲慢なんかを忘れる。神学に次いで、私は音楽に最高の地位と最大の名誉を贈る。神のみ言葉に次いで、音楽だけが人間の心と感情の女王・支配者として賞揚するに価するものであることを、経験が証明しているのである。われらは、悪魔にとって音楽がいとわしく、がまんのならないものであることを知っている。わたしの心は音楽に応えて沸き立ち、あふれる。音楽は終始わたしを生き返らせ、恐ろしい悩みから救い出してくれるのである」。
 詩編には、「ハレルヤ(主を賛美せよ)」と呼びかける歌が多くあります。主なる神をほめたたえ、主に感謝するのは信仰生活の基本です。私たちの教会生活、日々の歩みのすべては、いつも“主への讃美”から始まるのです。       (牧師 屼ノ下照光)

9月のみ言葉

隣人を自分のように愛しなさい。  (マタイによる福音書 22章39節)

            「自分を愛する」               
              
死生学で知られているアルフォンス・デーケン神父さんは、『心を癒す言葉の花束』という著書の中で、「不幸な人の特徴」として、次の六つのことをあげておられます。
自己愛に欠けている人
相手をあるがままに認められない、受け入れられない人
人生の各段階に応じて成長していない人
他者を意識しすぎる人
人生の危機をチャンスとして使わない人
信じない人、愛せない人
 「人生の各段階に応じて成長していない人」のところで、デーケン神父さんは、「若いときには、『持つ』ことが人生の大きな目標になります。しかし、中年期からは、いかに、『ある』かを考えて、心の温かい人間になることのほうが大切だと思います。定年退職後は、『手放す』ことが課題となります。人生の各段階でうまく軌道修正できない人は、不幸になります」と語っておられます。私も、『手放す』時期に入りました。たいへん難しい事のようですが、感謝しつつ『手放す』歩みを目指したいと思います。

 デーケン神父さんは、「不幸な人の特徴」の最初に、「自己愛に欠けている人」をあげておられます。イエス・キリストに出会うまでの私は、まさにそれでした。私は自分自身の外面も内面も、すべてが嫌いでした。デーケン神父さんは、この項で、「自分を十分に愛せない人は、他者をほんとうに愛することができず、ゆえに、幸福にはなれません」と書いておられますが、自分を十分に愛するためには、自分がどんなに愛されているか、大切にされているかを知らなければなりません。私の場合、そのことを教えてくださったのが、イエス・キリストでした。主イエスさまは、大切な戒めとして、「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22章29節)と教えてくださいました。主イエスさまに愛されたヨハネは、その手紙の中で次のように語っています。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神からでるもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」(汽茱魯4章7〜8節)。

 主イエス・キリストは、私に出会ってくださって、「おまえが大切なんだ。おまえを愛しているよ」と語ってくださいました。主イエスさまに愛されていることを、わたしは大いに喜んでいます。しかし、主イエスさまに従うことにおいても、隣人を愛することにおいても、失敗の多い私です。そんなとき、私は、鏡の中の私に向かって、「おまえはアホだよ。それでもイエスさまは、おまえを愛してくださっているよ」と、愛をこめてほほえみかけています。
                             屼ノ下照光


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