1月の御言葉

言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば神の天使たちの間に喜びがある。

                         (ルカによる福音書 15章10節)     

             天使たちの喜び

 私たちの主の年2020年の新年、あけましておめでとうございます。

 皆さまそれぞれに、祝福に満ちた新年をお迎えになられたことと思います。皆さまとともに、主なる神さまへの大きな感謝をもって、新しい歌を、主にお捧げしたいと思います。

洗礼式は、教会にとって大きな喜びのときです。桔梗が丘ルーテル教会では、昨年8月に、一人の幼子の洗礼式によって、神さまから大きな喜びをいただきました。私は、教会で洗礼式が執り行われるたびに、イエスさまが語ってくださったみ言葉を思い起こします。ルカ15章7節、10節。「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(7節)。「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」(10節)。一人の人が、神さまに受け入れていただくという洗礼式は、何よりも、神さまの前での大きな喜びであり、天使たちの喜びであると語られているのです。それは、ほんとうに不思議なことですが、確かなことであると、聖書は語っています。

 私は、牧師として、洗礼式を執り行うたびに、50年前の南大阪ルーテル教会における私自身の洗礼式を思い起こしてきました。思い起こすというより、いつもそこに連れ戻されてきました。1月1日は、私の受洗記念日です。私は、1970年の元旦礼拝において、洗礼の恵みに与りました。日曜日に仕事を休めない私のために、岩井代三牧師が、元旦礼拝で洗礼式をしてくださいました。前日の深夜まで仕事をしていた私は、元旦の朝、寒い中を教会に向かいました。その日のことは、今も鮮明に思い起こすことができます。寒くて薄暗い会堂での洗礼式の後、教会の兄弟姉妹たちが、笑顔で、手を差し伸べて迎えてくださいました。それは、青春の日々の中で、誰からも好かれたり、愛されることなどあり得ないと思っていた私が、神さまに愛され、大切にされ、兄弟姉妹たちから、受け入れられたという喜びを与えられた瞬間でした。

 そして、その喜びは、神さまの喜びであり、天の上の天使たちの間の喜びだったのです。神さまと天使たちは、この喜びを待っておられます。2020年、私たちの教会において、この喜びを経験させていただくよう、また、多くの人たちとこの喜びを分かち合えるよう、礼拝を大切にしながら、神さまの恵みと救いのみ言葉を語り伝えていきましょう。

 今年4月には、北山琢先生による伝道集会が計画されています。この集会では、ゴスペルを歌う会の皆さまにもご協力いただきます。この機会に、多くの人たちに神さまを賛美することの喜びをお伝えしたいと思います。そして、何より、主イエス・キリストの福音、救いの恵みの喜びをお伝えして、神さまと天使たちの間の喜びを、私たちも味わわせていただきたいと願っています。

 北山先生のご奉仕と健康のために、お祈りください。     (牧師 屼ノ下照光)


12月の御言葉

ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。

ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。

権威が彼の肩にある。

その名は、「おどろくべき指導者、力ある神

永遠の父、平和の君」と唱えられる。  (イザヤ書9章5節

 

闇の中に投げ込まれた平和

11月19日の中日新聞に、「『死の商人いらない』市民ら反対『武器見本市開幕』」という見出しで、千葉の幕張メッセで開催された「総合的な防衛装備品の見本市」の記事が掲載されていました。人を傷つけ、殺すための道具の見本市があること、それが、日本で開催されたということに、私はたいへん驚き、また戦慄をおぼえました。記事には、2014年に現政権が、「武器輸出三原則」を撤廃してから、武器輸出の動きが加速したと報じられていました。また、この見本市に、「死の商人いらない」と反対する市民団体の抗議行動についても報じられていました。

 この記事のとなりには、「『ローマ法王 平和訴え』という記事も掲載されていました。11月23日から4日間、日本を訪問するローマ教皇が、「核兵器の破壊的な力が人類の歴史で二度と使われないよう共に祈る」と訴えたことが報じられていました。ローマ教皇フランシスは、核兵器の問題や貧困、環境問題にも積極的に発信しており、「人類はヒロシマとナガサキから何も学んでいない」と語って、核廃絶を強く訴えています。

争いが絶えず、対立や憎しみに支配されているこの闇のような中に、神さまは、独り子イエス・キリストを送ってくださいました。イエスさまがお生まれになる700年も前に、預言者イザヤは、神さまの約束として、闇の世に光が投げ込まれると語りました。イザヤは、その約束を、「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。/ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」と表現しています。この赤ちゃんは、「平和の君」と呼ばれると語られています。この「平和の君」について、ドイツの神学者、ボンヘッファーは、次のように語っています。

「『平和の君』。神が愛ゆえに人間のもとに来る時、神と人間の間、そして人間と人間の間に平和が結ばれる。神の国の怒りかを恐れるなら、飼い葉桶の子どもの前に行き、そこで神の国の平和を手に入れなさい。もしあなたの兄弟との間に、争いや憎しみがあるなら、神がどんなに大きな愛からわれわれの兄弟になったか、そして神がわれわれとどんなに和解しようとしているかを、来て、実際に見なさい。この世には暴力が支配している。しかし、この子どもこそは平和の君であり、彼のいるところには、平和が支配しているのである」。

 ボンヘッファーはこのように語り、この幼子がだれであるかを知ろうと思うなら、この「人のかたちをとった神(イエス・キリスト)」の前で、静かに沈黙して礼拝しなさいと語っています。この世と私たちの罪と悲惨さのすべてをその肩に負われたこの方の前に、沈黙して礼拝しなさいと語っています。

 争いと憎しみと悲惨さが満ちているこの闇の世界に、神さまが、みどりごを「平和の君」として投げ込まれました。神ご自身が、弱々しい赤ちゃんの姿で、私たちの所に、この私の所に来てくださったという事実に、私は深い感動をおぼえるのです。

 クリスマス おめでとうございます。          (牧師 屼ノ下照光)


11月の御言葉

これらの人たちはみな、信仰をいだいて死んだ。 まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、 そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。         (ヘブライ人への手紙11章13節・口語訳)

地上の旅人  

ヘブライ人への手紙11章1節には、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と語っています。続いて著者は、アブラハムなど旧約聖書の信仰に生きた人々を紹介して、彼ら、この地上では旅人であり、寄留者として、神さまを仰いで、神さまの約束、その恵みを確信して歩んだのであると証言しています(「旅人、寄留者」というところを新共同訳聖書では、「よそ者、仮住まいの者」と訳しています)。  

私たちの人生は、よく「旅」にたとえられます。芭蕉の句に、「旅人と我が名呼ばれん初しぐれ」、「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」というのがあります。人生が旅であることをうたっているのでしょう。なお、「旅に病んで」というのは、奧喜代治兄が好きな句でした。晩秋に向かうこれからの季節、私は夕暮れ時などには、非常に感傷的になることがあります。それは、「旅」としての人生を感じるからなのだろうと思います。  旅人、寄留者というのは、定住するところを持たない人のことです。腰を落ち着けるところのない者のことです。私たちの人生の中に突然に襲ってくるような虚しさとか不安感は、この「旅人」としての歩みのゆえであるといえるのではないでしょうか。しかし、落ち着けるところのない旅であっても、どこから出て来て、どこへ行くのかを知り、信頼できる確かな道連れがあるならば、不安定なその旅もまた、確かな足取りで歩むことができるのではないかと思います。  

アブラハムは、75歳の時、故郷を後にして、見知らぬところに旅立ちました(旧約聖書『創世記』12章)。彼は、星降る静寂の中で、確かな神さまの声を聞いて、妻サラと甥のロト、そして使用人たちを伴って旅立ちました。彼は、失敗を重ねながらではありましたが、見知らぬところへと、神さまに導かれて歩み続けました。神さまこそが、彼らの旅の確かな道連れでした。  私たちの人生の旅の道連れ、それは、神の御子、救い主イエス・キリストご自身です。私たちの罪のために十字架を負ってくださったイエス・キリストは、十字架の死の後、復活して、今も生きて、私たちと共に歩んでくださる方です。遠藤周作の小説に『死海のほとり』というのがあります。そのテーマは、「同伴者イエス」です。ある批評家は、「同伴者イエスというのはあまりにも感傷的すぎはしないか」と言っていましたが、私は、そうは思いません。私たちの人生には、信頼できる確かな道連れが必要なのです。そうでなければ、私などは、晩秋の夕暮れの虚しさの中にくずおれてしまいます。人生という「旅」の夕暮れの中においても、復活し、今も生きておられるイエス・キリストは、私たちの死のかなたにまで、共に歩んでくださる方なのです。それゆえ、私もまた、失敗ばかりの歩みではありましたが、神さまに賛美と感謝をささげる歩みを続けてくることができました。  

桔梗が丘ルーテル教会は、イエス・キリストが道連れとなってくださった人たちの集まりです。それは、共に、神さまを礼拝し、賛美する仲間です。その仲間たちもまた、大切な旅の道連れです。私たちは決してひとりぽっちではありません。互いに祈り合い、支え合う仲間です。そして、永遠の同伴者、イエス・キリストが、私たちのそれぞれの人生の旅に伴い、導いてくださるのです。       (牧師 屼ノ下照光)


10月の御言葉

見よ、わたしはあなたを わたしの手のひらに刻みつける。                     (イザヤ書49章16節)

愛されているから  

私たちにとって、家族は大切な拠り所です。一番身近な存在であり、心の拠り所です。

しかし、そうであるがゆえに、求めている愛を得られない時、傷つき、また傷つけてしまいます。

家族をめぐる、悲しいニュースは後を絶ちません。摘発された殺人事件のうち、55%が親族間で起こっているそうです。特に、幼子が親によって手に掛けられる事件は、胸がつぶれそうです。

子どもは親にすがるしかありません。自分の命、生活のすべてが親にかかっています。虐待するような酷い親であっても、幼子は、自分を受け入れてほしい、愛してほしいと親にすがり、親の求めになんとか応えようと必死です。

親は親で、やはり、子どもが大切でしょう。けれども、人の愛は、時として自己愛の延長であったり、歪んだり、過剰になったりして、健全な愛から外れてしまいます。

 

イザヤ書49章に次のような言葉があります。

シオンは言う。主はわたしを見捨てられた わたしの主はわたしを忘れられた、と。

女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。

母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。

たとえ、女たちが忘れようとも わたしがあなたを忘れることは決してない。

見よ、わたしはあなたを わたしの手のひらに刻みつける。

神さまが、私たちをお忘れになることはありません。

乳飲み子を母が忘れることがないように、いや、たとえ母親が忘れることがあったとしても、主が私たちをお忘れになることは決してないのです。『手のひらに刻みつける』とありますが、原語では、手のひらは複数形となっています。私たちは、神さまの両手に刻みつけられているのです。神さまは、痛みをもっても、私たちを決して忘れることのないようにしてくださるのです。

どのような苦難に遭っても、私たちは神さまに見捨てられているのではありません。そのことは、イエスさまの十字架に顕かです。神さまは、ご自分の御子をさえ、惜しまずに死に渡されたほどに、私たちを愛してくださっているのです。その愛を本当に知るとき、私たちはもはや、愛に飢え渇いた者から、愛する者、愛を注ぐ者へと変えられるでしょう。

いつも神さまの愛を求めましょう。主の愛に満たされて、一番身近な家族をまず愛しましょう。 そこから、また愛が生まれるでしょう。

(補教師 北山 琢)


9月の御言葉

フィリポが走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえたの で、
「読んでいることがお分かりになりますか」と言った。
宦官は、「手 引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言い、
馬車に 乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。
  
              (使徒言行録 8章30〜31節)

8月18日、敬愛する岩井代三牧師がご召天されました。86歳でした。20日に葬送前夜式、21日に葬送式が、南大阪ルーテル教会で執り行われました。私が、司式をさせていただきました。岩井代三先生は、近畿福音ルーテル教会の牧師としてご奉仕くださいました。特に、ルーテル・アワーのラジオ牧師として、35年間ご奉仕くださいました。
 先生の葬儀の準備をしながら、私はさまざまなことを思い起こしていました。ちょうど50年前の夏、私は、南大阪ルーテル教会を訪ねました。それが、岩井先生との最初の出会いでした。人と人との出会いの不思議さということについては、多くの人たちが語っていることですが、50年前の、岩井代三先生との出会いもまた、たいへん不思議であり、私には、神さまが、備えてくださった出会いであったとしか言いようのない、大きなできごとでした。私が18歳、岩井代三先生は、36歳の青年牧師でした。
当時、日曜日に仕事をしていた私は、月曜日に先生のご都合をうかがいながら、毎週のように教会に通いました。そして、その年の暮れまで、私は先生を独り占めするようにして、先生から聖書とキリスト教教理の指導をいただきました。翌年の1970年の元旦礼拝の中で洗礼を授けていただきました。その後も個人的な指導をいただき、また、岩井先生がテープによる月曜礼拝を準備してくださったので、月曜日に教会に通いながら、教会生活を続けることができました。2年後には、先生に勧められて、聖書学院、伝道実習生、神学校、牧師へと導かれました。その歩みの中で、いつも、先生がやさしく指導し、導いてくださったことを思い起こします。
使徒言行録 8章には、迫害によって散らされたフィリポが、エルサレムの神殿の礼拝から帰る途中のエチオピアの宦官に、イエス・キリストを宣べ伝えた物語が記されています。聖書を読んでいた宦官にフィリポが近づいて、「読んでいることがお分かりになりますか」と尋ねました。すると、宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と答え、フィリポは彼の馬車に乗り込んで、イザヤ書のみ言葉から、救い主イエスさまについて語りました。この物語の結びは次のようになっています。
「道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。『ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか』。そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた」(使徒言行録 8章36〜38節)。
主イエス・キリストの救いの恵みの喜びをいただくためには、「手引きしてくれる人」が必要です。私にとって、岩井代三先生は、確かに、「手引きしてくれる人」でした。私たちの周囲にも、「手引きしてくれる人」を必要としている人たちは多くおられるのではないでしょうか。
そのような人たちに、どうぞ、イエスさまのことを伝えてください。
また、イエス・キリストの教会にお誘いください。
                                                                                                                                              (牧師 屼ノ下照光)

7月の御言葉

青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。
苦しみの日々が来ないうちに。
「年を重ねることに喜びはない」
と言う年齢にならないうちに。
(コヘレトの言葉 12章1節) 

青春の日々に

 7月28日(日)〜29日(月)に、私たちの教会が所属している近畿福音ルーテル教会三重地区合同夏の子どもキャンプが、志摩市大王町の志摩キリスト教会で開催されます。小学生が対象ですが、お子さまやお孫さんたちのご参加はいかがでしょうか。どうぞ、ご案内ください。ご関心ある方は、教会にあるポスターやチラシをご覧ください。
 このようなキャンプで、子どもたちが神さまに出会い、新しいお友だちと出会うことができたなら、それはどんなにすばらしいことかと思います。

 私は、50年前に聖書が語る神さま、イエス・キリストに出会いました。否、イエス・キリストが私に出会ってくださり、私を捕らえ、私をしっかりと抱きとめてくださいました。そのころ、17歳の私は、青春の真ん中にいましたが、自分自身が何者であるかもわからず、生きる目的も知らず、夢も希望もなく、悶々とした中で、どうにでもなれといった投げやりな思いで、すねたように日々を送っていました。                                                                                                                               そんな時、イエスさまが私に出会ってくださり、私が何者であるかを、おぼろげながらも知らされました。それは、この私は、天と地を創造された神さまによって造られ、命を与えられ、その方に深く愛され、大切にされている存在であるということでした。おぼろげではありましたが、深い闇の中にいたような私にはそれで十分でした。それが、私の信仰の歩みの始まりであり、それによって今日まで支えら
「神は、その独り子(ヒトリゴ・すなわちイエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3章16節)と聖書に語られているように、独り子(ヒトリゴ)イエスさまを十字架につけてしまわれるほどの圧倒的な愛で、神さまはこの私を包み込んでくださいました。
 「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」と聖書に語られていますが、青春の日々の中で、この愛の神さまに出会ったこと、否、神さまがこの私と出会ってくださった恵みを、深く感謝しています。そして、私は、この方の愛の中でこれからの生涯も導かれ、さらには、死のかなたにおいても、この方の愛の中に包まれるという希望を抱いています。                             牧師 屼ノ下照光

                                                                                                                          

6月の御言葉


5月の御言葉

女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。
母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。
たとえ、女たちが忘れようとも
わたしがあなたを忘れることは決してない。

           (イザヤ書 49章15節)

母の日                   牧師:屼ノ下照光
5月12日(日)は、桔梗が丘ルーテル教会のバザー「ルーテル・マルシェ」です。お友だち、近所の方々を誘って教会においでください。
5月第2日曜日のこの日は「母の日」です。「母の日」は、1908年、アメリカの教会で始まりました。ウェストヴァージニア州にアンナ・マリア・リーヴス・ジャーヴィスという女性がいました。彼女は教会学校で奉仕しながら、すべての母親を讃える特別な日の制定を望みながら亡くなりました。彼女の娘アンナ(母親と同名)は、母親の遺志を継いで地道な運動を重ね、1908年5月10日に、教会において「すべての母親に感謝する礼拝」が行なわれました。この日は、彼女の母親の命日にいちばん近い日曜日でした。娘アンナは、この礼拝に出席する人たちのために500本の白いカーネーションを用意しました。それは、母親の好きな花でした。それは、母親の愛の美しさ、純粋さ、忍耐強さを象徴しているとされています。1914年には、アメリカの議会において、5月第二日曜日を「母の日」とすることが決められました。ちなみに、日本でのはじめての「母の日」は、1922年(12年)です。
ある牧師さんがこのように語っていました。
「聖書には、『右の頬を打たれたら、左の頬も向けなさい』とか、『下着を取ろうとする者には上着も取らせなさい』という、よく知られた主イエスの教えがあります。これらの教えを守れる人はだれもいない。いるとすれば、それは母親だけである」。
また、他の牧師さんは、自分のお母さんについて次のように語っています。彼のお母さんは終戦後の食料不足の時、自分は食べないで彼と妹さんに食べさせて亡くなってしまわれたそうです。
「そのようにして、母が亡くなったことは、ずっと後に、母の友人から聞いたことでしたが、それを聞いた時、わたしはこう思いました。『ああそうか、母ちゃんは、子どもはまた産めばいいと言って自分が助かってもよかったのに、そうしないで死んでくれたんだ。それで、おれが生きたんだな。この命はかあちゃんのおかげなんだ』。わたしはいつまでもこのことを忘れません」。
食べるものも食べないで子どもに食べさせるとか、夜中に一睡もすることなく、病気の子供を看病するといったお母さんの姿を、私たちも見てきたのではないでしょうか。私自身も母親を亡くしてからずいぶんと年月を経ましたが、母親を思い起こすと、胸が熱くなります。私は、15歳の時からずっと母親と離れて歩んできましたが、それでも、母親の優しさや温かさ、そして、ほろ苦い思い出など、いくらでも思い起こすことができます。
イザヤ書49章15節のみ言葉に、私はいつも深い感動を覚えます。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか」。母親が我が子を忘れるなどあり得ないことだと語られています。そして、主なる神さまは、続いて、「たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない」と語っておられます。
 『母の日』にあたり、それぞれの母親への感謝をあらわしたいと思います。そして、母親の愛にもまさるまことの愛をもって、大切な母親を与えてくださった主なる神さまに、深い感謝と賛美をあらわしたいと思います。


4月の御言葉

子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。
だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに
見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。

                    ルカによる福音書15章31,32節



すべての人を祝宴に招く
 ある人に二人の息子がありました。弟の要求に応じて、父親は遺産を二人に生前分与してやりました。それを手にした弟は家を飛び出し、遠い国へ旅立ち、放蕩の限りを尽くして全財産を使い果たしてしまいました。ひどい飢饉が起こって、食べる物に窮し、頼った人には禁忌である豚の世話をさせられますが、豚のエサすら口にすることが出来ませんでした。彼は我に返って、父のところに帰って罪を告白し、雇人として養ってもらおうとします。息子と呼ばれる資格もないのだから、と。
 ところが、父親は遠く離れたところで早くも息子を見つけ、憐れに思って駆け寄って抱きしめ、接吻しました。上等の服、指輪、履物を着させ、肥えた子牛を屠って祝宴を始めました。畑から帰った兄は、その知らせを聞いて立腹し、家に入ろうともしません。すると、父親は、外に出てきて、なだめるのです。兄は、何年もまじめに父に仕え、言いつけも守ってきたのに、友達との宴会に子山羊一匹すらもらえなかった、それなのに、身上を食いつぶした弟には、肥えた子牛を屠ってもてなすのか、と怒りをぶつけます。それに対する父親の言葉が、冒頭の御言葉です。有名な『放蕩息子』のたとえです。

 私たちは、神さまのもとで生きる素晴らしさがわかりません。自分の人生は自分のものだ。誰にも束縛されず、好き勝手に生きていきたい。財産さえあれば、それでいい。そんな風に思います。しかし、その行き着くところは滅びです。何もかも失っても、この弟のように、父なる神さまのもとに帰ろうと思うことが出来れば、幸いです。
  神さまは、息子の帰還を今か、今かと待っていてくださいます。『憐れに思う』とは、神さまにしか使われない、「腸のちぎれるような思いに駆られる」という言葉です。それほどまでに思って駆け寄って抱きしめ、御国の祝宴に与らせてくださるのです。
 ところが、兄の方は、弟に嫉妬し、弟とも認めず、祝宴に出ようともしません。放蕩の限りを尽くした弟を、父が愛情たっぷりに受け入れ、もてなすことに腹を立てます。弟のことを、『あなたのあの息子』と皮肉な呼び方をし、批判します。自分はずっと父に『仕えている』と言うとき、『奴隷として仕える』という言葉を使っています。実は兄も、父のもとで生きることを喜んでいないのです。その素晴らしさが解っていないのです。嫌だけれども、我慢して従っているのだ、それなのに、そんな自分には何の報いもなく、放蕩息子の方に愛を注ぐのか、と言うのです。
 
 イエスさまは、ファリサイ派や律法学者たちに向かって、このたとえを話されました。彼らは、イエスさまが、御許に来て話を聞こうとする徴税人や罪人を受け入れ、食事も共にされたことが不満だったのです。ファリサイ派や律法学者たちが兄、徴税人や罪人が弟です。父なる神さまは、弟だけでなく、兄のことも慈しんでおられます。僻んで家に入らない兄のもとへ行き、なだめる。『なだめる』というのは、そばに呼び寄せるというのが原義です。そこから慰め、励まし、諭すという意味に広がります。この言葉の名詞が助け手、慰め主という言葉で、神さま、御子イエスさま、ご聖霊のことを言い表します。

 神さまは、すべての人が御許に帰り、救われ、御国の祝宴に共に与ることを望んでおられるのです。放蕩している者も、自分を正しいと思っている者も、実は自分勝手な歩み、自己中心的な歩みをしているという意味では同じです。しかし、神さまは、どちらであっても祝宴に招いておられるのです。 
 神さまは、ご自分から離れて放蕩している私たちを、また、自分を正しいと思って人を見下す私たちを、自分勝手な滅びの道から、何とか御そばに引き寄せ、生きるようにと望まれました。大切な御子イエスさまを身代わりにするほどまでに、私たちを愛してくださいました。イエスさまを十字架に架けて殺し、そして復活させることによって、私たちが罪から救われ、御許に帰って生きる道を開かれたのです。
 イースター、復活祭は、御国の祝宴です。イエスさまが復活されたことを感謝し、お祝いすることは、私たちが罪と死から救われ、イエスさまの命に与る喜びです。実は、神さまご自身が、私たち放蕩息子の帰還を心から喜び、お祝いしてくださる、その祝宴に与ることなのです。この喜びを、多くの方と共に味わいたいと願っています。
                              (補教師:北山 琢)

3月の御言葉

悲しむ人々は、幸いである、
 その人たちは慰められる。
   (マタイによる福音書 5章 4節)

慰 め                   牧師:屼ノ下照光
私が担当している松阪ルーテル教会では、月一回、「詩画と聖書に親しむ会」が開催されています。毎回、星野富弘さんの詩画の一編を選んで鑑賞し、参加者が互いに感想などを述べ合い、また、聖書のみ言葉を聞いています。
今年、2月の「詩画と聖書に親しむ会」では、クリスマスローズのきれいな絵にそえて、次のような詩がありました。
      悲しい時に
      悲しめる 心を持っている
      あふれ出る 涙がある
      なんという 慰めだろう
クリスマスローズの花言葉のひとつに、「慰め」があります。この花言葉を知って、星野さんがクリスマスローズの絵に、なぜこのような詩をそえられたかが納得できました。
私は、この詩に触れて、イエスさまが語られたみ言葉を思い起こしました。
「悲しむ人々は、幸いである、
         その人たちは慰められる」 (マタイによる福音書 5章 4節)
私たちは、生きている中で、さまざまな悲しみや嘆きを経験します。そのような「悲しむ者」は幸いであるとイエスさまは語っておられます。たいへん不思議な言葉です。「慰める」と訳されているギリシア語「パラカレオー」という言葉には、「招く」、「呼び寄せる」という意味があります。悲しむ人々こそが、神さまに呼び寄せられ、招き入れられて、包み込まれるというような印象の言葉ではないでしょうか。「悲しむ」というギリシア語「ペンソウ」という言葉には、「嘆く」、「死を悼む」という意味もあります。愛する者の死は、悲しみの極みです。その悲しみの極みの中にある人々にイエスさまは、「悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる」と語っておられます。ある女性のご召天50日の記念の祈りの時、私は、ご遺族の方々にこのイエスさまのみ言葉を紹介して、「不思議な言葉ですが、ほんとうに深く悲しむところでしか得られない慰めがあるのではないかと思います」とお話させていただきました。愛する者の死は、確かに悲しみの極みですが、キリストの復活に与る信仰者は、死のかなたにも、キリストと共に永遠に生きるという希望が与えられています。その希望のゆえに、私たちは、愛する人との別れにおいて、深く深く悲しみ、涙を流してよいのです。その悲しみの極みにおいてこそ、主イエス・キリストは、悲しむ者を、そのふところに呼び寄せ、しっかりと抱きとめてくださるのです。
星野富弘さんの、このクリスマスローズに寄せた詩は、悲しみや涙について、私たちの心を新たに開かせてくれる言葉のように思いました。「悲しむことができる」、「涙をながすことができる」そのことこそが慰めであると語られています。私は、「悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる」と語られたイエスさまの愛の御心を、しっかりととらえておられる星野さんに、深い感動をおぼえました。私自身、星野さんのこの詩に触れて、あらためて、イエスさまのみ言葉の深みに触れる思いがしました。この詩に触れることができたことを感謝しています。


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