12月のみ言葉

      闇の中を歩む民は、大いなる光を見
      死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。(イザヤ書 9章1節)

      すべての人を照らすまことの光りがあって、世にきた。
                     (ヨハネによる福音書 1章9節)


            「クリスマスって何の日」    
     
 2011年11月末から12月にかけて、私は、当時の議長、末岡成夫先生と杉岡直樹牧師と共に、シンガポール、タイ、オーストラリアを訪問し、各国のルーテル教会の代表者たちと会う機会が与えられました。旅行の間、天候にも恵まれ、シンガポール、タイは気温30度以上の夏日、オーストラリアも夏に向かう季節で、ずっと半袖で過ごすことができました。ビーチでは泳いでいる人たちもいました。そのような中で、街中にはクリスマスツリーが飾られていました。むし暑いシンガポールで雪の結晶をあしらった飾りが吊り下げられているのを見たときは、少し不思議な感じがしました。
 
 オーストラリアでは、ルーテル教会の本部に勤めておられるグレナス・ハートウィッチさんの家に夕食に呼ばれました。彼女は3年前に近畿福音ルーテル教会を訪れてくださいました。この夕食にはオーストラリア・ルーテル教会の二人の若い牧師も招かれていて、おいしいワインと料理をいただきながら楽しい時を過ごしました。彼らと話していて驚いたことがありました。オーストラリアでもクリスマスが何の日であるかを知らない若者たちが多くなっているということでした。テレビの街頭インタビューで、「クリスマスは何の日ですか」という質問に、「プレゼントの日」、「パーティーの日」と答える若者がたくさんいるということでした。

 昔、ノルウェー人宣教師が、和歌山の田舎でクリスマスの案内のチラシを配っていた時、ある漁師さんが、「教会でもクリスマスをやるのけ」と聞いてきた、という笑い話をしてくれたことがありましたが、最近では、それが笑い話でなくなってきているように思います。
 
 神さまが、闇の中を歩む人間、死の陰の地に住む人間(イザヤ9章1節)を愛するあまりに、まことの“光”である独り子イエスさまを与えてくださったのがクリスマスです。イエスさまの暗く冷たい家畜小屋でのお誕生は、そのことをあらわしています。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」(イザヤ9章5節)と聖書は語っています。

 クリスマスは、あなたと私のために、神さまの独り子イエスさまが生まれてくださった日です。オリーブの会クリスマス会、子どもクリスマス会、キャロリング、クリスマスイブ礼拝、クリスマス家族礼拝、祝会に、お友だちを誘って、教会においでください。みんなで、私たちのために生まれてくださったイエスさまのご降誕をお祝いいたしましょう。
                                 屼ノ下照光

11月のみ言葉

互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。          
                 (ローマの信徒への手紙 13章8節)


              「愛の貸し借り」

 私は、田舎の中学を卒業した15歳のとき大阪に出てきました。もう50年も昔の話です。理容師の見習いとしてある店で住み込みで働いていました。その店の主人は新入りの私たちに、「互いに金の貸し借りだけは絶対にしてはいけない」と語りました。俗に「借りるときは貸主の顔が仏に見えるが、返すときは鬼の顔になる」と言われるように、金の貸し借りによって人間関係が崩れ、壊れてしまうということはよくあることなのです。それゆえ、職場の中での金の貸し借りはしてはならないと厳しく戒められたのです。

 ローマ 13章8節のみ言葉は、新改訳聖書が、だいたい原文に忠実に訳しているとされています。新改訳では、「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です」となっています。どんなことにも貸し借りがあってはならないが、「愛し合う」ということだけは別であるとパウロは語っているのです。借金が人間関係をだめにしてしまうことがあり、生活を壊してしまうということがあります。しかし、「愛は隣り人に害を加えません」(10節・口語訳)とパウロは語っています。

 マタイ18章21〜35節には、主イエス・キリストによってあらわされた神の愛について主イエスさまがたとえをもって語っておられます(『仲間を赦さない家来』のたとえ)。そこでは主イエスさまの十字架の愛によって赦された私たちの罪が、1万タラントンというとてつもなく大きな借金として語られています。とても返済することのできない借金を、神はすべて御子イエスによって赦し、チャラにしてくださいました。主イエスさまは、それをすべて返済しなさいと要求しておられません。それゆえ、「あなたがたも、互いに赦し合え、愛し合え」と語っておられます。ある宣教師は、「愛し合う」ということを説明して、それは「尊敬し合うこと」「励まし合うこと」「感謝し合うこと」「赦し合うこと」であると説明しています。分かりやすい表現だと思います。

 愛の貸し借りは決して返済を強要されるものではありません。だからこそ、愛の貸し借りだけは大いにしなさいとパウロは語っているのです。返済を求めるところに愛の崩れが生じます。「こんなにしてあげたのに‥‥‥」、「わたしはこんなに愛しているのに‥‥‥」などと言って返済を求めるなら、“愛”は“愛”でなくなってしまいます。あるいは、「これで、あの人に対する借りはすべて返してしまった」などと言うこともできません。そんなことはできるはずがないのに、もし、返してしまったと思うなら、その時、互いの関係はそこで断ち切られてしまいます。愛の負債、負い目を互いに負い続けるところに、ほんとうの愛の関係が保たれるのでしょう。
もちろん、借りたものは返したいという思いは当然出てきます。そのときは、喜んで返そうとすればよいのです。さらには他の人たちにその愛を分けたらよいのだと思います。しかし、決して強要されるものではありません。互いが、愛を貸して返済を求めず、愛をすなおに借りて喜ぶ。それこそが、「律法を全うする」(8節)ことであり、神の恵みに応えることなのです。                      (牧師 屼ノ下照光)

10月のみ言葉

ハレルヤ
新しい歌を主に向かって歌え。
主の慈しみに生きる人の集いで賛美の歌をうたえ。

                (詩編149編1節)

               「ハレルヤ」
 10月31日は“宗教改革記念日”です。1517年、ドイツの修道士マルティン・ルターは、当時教会で販売されていた“贖宥券(免罪符)”に対して、それがほんとうに神の救いと恵みを人々にもたらすものであるのかということに疑いを抱きました。そこで、そのことについての討論を呼びかけるための「95個条の提題」を、10月31日に教会の扉に貼り付けました。これが宗教改革の始まりでした。
 ルターによる宗教改革は礼拝の改革でもありました。彼は聖書をドイツ語に訳して誰もが自分の言葉で聖書を読むことができるようにしました。それと同時に、讃美歌をも民衆の手に戻したのです。会衆が自国の言葉で歌うということは、それまでなされていませんでした。この会衆がうたう賛美歌を“コラール(衆賛歌)”と呼んでいます。ルター自身も35編くらいのコラールを作っています。その中には彼自身が作曲したものもありますが、また、民衆の間で当時流行っていた歌や民謡の旋律に聖書の言葉をつけたものなども多くありました。これによって、人々は聞きなれた旋律で神を賛美する歌を歌うことができるようになったのです。教会讃美歌の23番、450番はルター作詞作曲の代表的な讃美歌です。
 ルターは、信仰生活における“音楽”をたいへん大切なものと考えていました。彼自身、リュートを弾きながら、家族や学生たちとともに、よく歌っていたようです。彼は音楽について次のように語っています。
 「音楽は、神の美しい、すばらしい贈り物である。聖アウグスティヌスは、音楽を楽しんでいる自分自身に気がつくと、いつも良心で悩んだ。彼は音楽を罪深いものだと考えたのである。しかし、彼はよりぬきの人物だったし、もしも今日生きていたなら、われわれと意気投合したことであろう。私は音楽を軽蔑する変人どもに何の用もない。なぜなら、音楽は神の賜物だからである。音楽は悪魔を追い払い、人々を晴れやかにする。人々はそれによってあらゆる怒りや、不貞や、傲慢なんかを忘れる。神学に次いで、私は音楽に最高の地位と最大の名誉を贈る。神のみ言葉に次いで、音楽だけが人間の心と感情の女王・支配者として賞揚するに価するものであることを、経験が証明しているのである。われらは、悪魔にとって音楽がいとわしく、がまんのならないものであることを知っている。わたしの心は音楽に応えて沸き立ち、あふれる。音楽は終始わたしを生き返らせ、恐ろしい悩みから救い出してくれるのである」。
 詩編には、「ハレルヤ(主を賛美せよ)」と呼びかける歌が多くあります。主なる神をほめたたえ、主に感謝するのは信仰生活の基本です。私たちの教会生活、日々の歩みのすべては、いつも“主への讃美”から始まるのです。       (牧師 屼ノ下照光)

9月のみ言葉

隣人を自分のように愛しなさい。  (マタイによる福音書 22章39節)

            「自分を愛する」               
              
死生学で知られているアルフォンス・デーケン神父さんは、『心を癒す言葉の花束』という著書の中で、「不幸な人の特徴」として、次の六つのことをあげておられます。
自己愛に欠けている人
相手をあるがままに認められない、受け入れられない人
人生の各段階に応じて成長していない人
他者を意識しすぎる人
人生の危機をチャンスとして使わない人
信じない人、愛せない人
 「人生の各段階に応じて成長していない人」のところで、デーケン神父さんは、「若いときには、『持つ』ことが人生の大きな目標になります。しかし、中年期からは、いかに、『ある』かを考えて、心の温かい人間になることのほうが大切だと思います。定年退職後は、『手放す』ことが課題となります。人生の各段階でうまく軌道修正できない人は、不幸になります」と語っておられます。私も、『手放す』時期に入りました。たいへん難しい事のようですが、感謝しつつ『手放す』歩みを目指したいと思います。

 デーケン神父さんは、「不幸な人の特徴」の最初に、「自己愛に欠けている人」をあげておられます。イエス・キリストに出会うまでの私は、まさにそれでした。私は自分自身の外面も内面も、すべてが嫌いでした。デーケン神父さんは、この項で、「自分を十分に愛せない人は、他者をほんとうに愛することができず、ゆえに、幸福にはなれません」と書いておられますが、自分を十分に愛するためには、自分がどんなに愛されているか、大切にされているかを知らなければなりません。私の場合、そのことを教えてくださったのが、イエス・キリストでした。主イエスさまは、大切な戒めとして、「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22章29節)と教えてくださいました。主イエスさまに愛されたヨハネは、その手紙の中で次のように語っています。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神からでるもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」(汽茱魯4章7〜8節)。

 主イエス・キリストは、私に出会ってくださって、「おまえが大切なんだ。おまえを愛しているよ」と語ってくださいました。主イエスさまに愛されていることを、わたしは大いに喜んでいます。しかし、主イエスさまに従うことにおいても、隣人を愛することにおいても、失敗の多い私です。そんなとき、私は、鏡の中の私に向かって、「おまえはアホだよ。それでもイエスさまは、おまえを愛してくださっているよ」と、愛をこめてほほえみかけています。
                             屼ノ下照光

7月のみ言葉

7月のみことば 
  わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。           (ヨハネによる福音書 15章5節)


               主イエスはぶどうの木             
 旧約聖書では、神さまが創り、治めておられるこの世界がぶどう畑にたとえられ、その世界に置かれている神の民がぶどう畑に植えられたぶどうにたとえられています(イザヤ書5章)。

 5年前、私は議長と共にシンガポール、タイ、オーストラリアの教会を訪ねる機会が与えられました。その旅行中、オーストラリアで一日だけ自由時間があり、私たちはワイナリー巡りのバスに乗りました。たいへんおいしいワインをいただきながら、どこまでも広がる緑のぶどう畑をながめていた時、私は、聖書が、ぶどう畑とぶどうを神さまの祝福の象徴として語っている意味が、なんとなくわかったように感じました。その美しい風景は、確かに神さまの大きな祝福をあらわしているように思いました。

 主イエス・キリストは、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と語っておられます。そして、4節では、「わたしにつながっていなさい」と語りかけておられます。このように聞きますと、何ごとにもだらしない私は、「はたして、私は主イエスさまにつながっているのだろうか」と不安をおぼえます。しかし、主イエスは、「わたしにつながっていなさい」という言葉に続いて、「わたしもあなたがたにつながっている」と語っておられます。このところを本田哲郎神父さんは、「わたしにつながっていなさい。わたしのほうからは、つながっているのだ」と訳しておられます。

 私は、これまでの信仰の歩みの中で、主イエスさまが私から遠く離れておられるのではないかという思いに囚われ、大きな不安を感じたことがしばしばありました。それは、自らの罪、弱さを思い知らされた時であり、大きな失敗、問題にぶつかった時でした。しかし、後になってわかったことは、そのような時にも、まことのぶどうの木である主イエスさまは、弱々しく貧弱な枝である私をしっかりとつかまえていてくださっていたということです。そして、私をつかまえながら、「わたしにつながっていなさい」と語り続けてくださっていたのです。

 私たちは、主イエスというぶどうの木につながる枝です。そのイエスさまが私たちに実を結ばせてくださいます。その枝が、どんなに貧弱で、弱々しく見えても、主イエスさまがつながっていてくださるので実を結ばせてくださいます。その実は、人の目にすぐにそれと分かるものではないかもしれません。それゆえ、「あの人は実を結んでいる。あの人には実がない」などと言えるものではありません。しかし、主イエスさまがつながっていてくださり、主がみ言葉を語り続けてくださるので、愛と平和をもたらすような実を結ばせてくださいます。私たちの罪のゆるしのための主イエスさまの十字架が、その約束のしるしなのです。                          (屼ノ下照光)

6月のみ言葉

雨も雪も、ひとたび天から降れば
むなしく天に戻ることはない。
それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ
種蒔く人に種を与え、
食べる人には糧を与える。
そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も
むなしくは、わたしのもとに戻らない。
それはわたしの望むことを成し遂げ
わたしが与えた使命を必ず果たす。 (イザヤ55章10〜11節)



               「神さまのみ言葉」             
 私は、毎月2回、日曜日午後の美杉教会の礼拝に出かけることをいつも楽しみにしています。小さな群れではありますが、共に神さまを賛美し、共に神さまの恵みに感謝をささげるという大きな喜びをいつも感じています。そして、美杉教会までの名張川に沿って走る27Kmのドライブは、この新緑の時期、ほんとうに気持ちのよいものです。これからは、アユをねらう釣り人の姿も見ます。また、山々の四季折々の移り変わりは目を楽しませてくれます。途中、猿の親子や谷川の水を求める鹿に会ったりもします。
 梅雨に向かうこの季節、車を走らせながら、美しい山々を映し出す田んぼや、みずみずしい緑の山を立ちのぼる霧を見る機会が多くなります。そんなとき、私は、イザヤ書55章のこのみ言葉を思い起こします。
 最近、政治家などの言葉に失望させられることが多くあります。政治家だけではありません。私の口からも、無意味でむなしい言葉、人を傷つけるような言葉が多く出ているのだと思います。主よ、私を憐れんでください。 
 神さまは、ご自身のみ言葉によってこの世界と私たちのいのちを創り、そのみ言葉によってそれを支えてくださっています。神さまのみ言葉には力があるので、確かに、私たちを、救い主イエス・キリストへと導いて救いを与えてくださいます。そして、私たちを潤し、私たちを慰め、励ましてくださいます。神さまは、み言葉の語りかけによって、私たちを優しく包み込んでくださいます。
日ごとに語りかけられる神さまのみ言葉、礼拝ごとに語りかけられる恵みのみ言葉を、主よ、感謝いたします。
                              牧師:屼ノ下照光

5月のみ言葉

もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。‥‥‥わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配する者も、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。           (ローマの信徒への手紙 8章31節、38〜39節)


              「神がわたしたちの味方」   
          
 パウロは、「神さまがわたしたちの味方である」と語っています。この月報では、ローマ8章31節、38〜39節だけを紹介していますが、31〜39節を、ぜひ読んでください。ここでパウロは、御子イエス・キリストを私たちに賜るほどに愛してくださった神さまは、御子の十字架と復活によって、私たちの罪を赦し、私たちを神さまの前に義なる者としてくださった。さらに、御子は今も私たちのために執り成し、支えてくださっているのだと語っています。パウロは、神に背を向け、神に敵対し、罪でしかない私たちに代わって、十字架を負ってくださった主イエス・キリストのうちに、私たちの想像をはるかに超えた神さまの大きな愛を見たのです。そして、彼は、この“神の愛”から、何ものも私たちを引き離すことはできないのだと勝利の宣言をしているのです。「神がわたしたちの味方である」ということは、何とありがたいことでしょうか。私は、3月で定年を迎えました。18歳の時に洗礼の恵みをいただき、22歳の時から今日まで教会の中で働いてきました。多くの失敗をしたり、恥ずかしいこともたくさんありましたが、神さまは確かに、私の味方として、赦し、支え、その愛で包みこみ、豊かな祝福をもって導いてくださいました。ほんとうに、ありがたいことであり、大きな喜びです。

 私は、昨年4月から月に2回、志摩教会に行っています。志摩教会では復活祭に、召天者の記念の祈りの時をもっており、今年も、ご遺族の方々と、救い主のご復活をお祝いし、召天者記念の祈りをしました。その折に、このローマ8章31〜38節を読ませていただきました。4月になって4人の方々の召天者記念の祈りのときを持ちましたが、そのうちの3人の方々の時も、このところを読ませていただきました。パウロは、「死も、‥‥わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」と語っています。パウロは、コリント15章26節で、「最後の敵として、死が滅ぼされます」と語っています。イエス・キリストは、ご自身の十字架と復活によって、私たちに怖れを抱かせる罪と死に勝利してくださいました。主イエス・キリストの十字架とその死からの復活によって、私たちに対する深い愛を示してくださった神さまが、“確かな味方”なのです。どんなことがあっても、私たちは見捨てられることがありません。召された方々と、今、さまざまな苦労をしながら歩んでいる私たちの共通の味方、それが、私たちを深く愛してくださっている神さまなのです。
                               牧師:屼ノ下照光

4月のみ言葉

ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」。   
                     (使徒言行録 18章9〜10節
 



              「わたしの民が大勢いる」      

 使徒言行録15章36〜18章22節には、パウロの第二回伝道旅行のことが記されています。この伝道で、主イエス・キリストの福音は、アジアからヨーロッパに広がっていきました。その伝道は決して容易ではなく、投獄されたり、ユダヤ人のねたみの中で騒動に巻き込まれたりしながらの活動でした。

 17章16節以下にパウロのアテネでの伝道活動のようすが記されています。そこでは、ユダヤ人たちと論じ合っただけではなく。哲学者たちとも討論したと語られています(17:18)。パウロの説教が17章22〜31節に記されています。ぜひ、読んでみてください。パウロは、アテネの人たちの宗教心に訴えつつ、イエス・キリストの復活について語りました。ところが、主イエスの復活についての話を聞いたアテネの人たちは、とたんにパウロのもとを去って行きました。聖書は次のように報告しています。「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらおうことにしよう』と言った。それでパウロは、その場を立ち去った」(使徒17:32~33)。
 パウロはおおいに気落ちしていたのかもしれません。アテネを去ったパウロは、コリントに行きました(使徒18:1)。そこで彼は協力者となるアキラとプリスキラという夫婦と出会い、同労者、シラスとテモテと再び合流して、さまざまな反対や妨害を受けながらも福音宣教に励みました。コリントの町では多くの人たちが信仰に導きいれられたようです。「会堂長のクリスポは、一家をあげて主を信じるようになった。また、コリントの多くの人々も、パウロの言葉を聞いて信じ、洗礼を受けた」(18:8)。
 そのころ、アテネの人たちがあざ笑った復活の主イエスが幻の中でパウロに現れて語りかけられました。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」。この主の言葉に励まされて、パウロはコリントの町で1年6カ月にわたって伝道の働きを続けました。

 5月8日(日)は、桔梗が丘ルーテル教会恒例のバザーです。予定に入れてご出席ください。また、ご協力をお願いいたします。バザーへの出品のご協力もお願いいたします。
この桔梗が丘、名張の町にも、主イエスさまが、「わたしの民」と読んでおられる人たちが大勢おられます。その人たちと一緒に主なる神さまを賛美し、礼拝するバザー、共に楽しみ、喜び、感謝するバザーになるようにと、祈り、願っています。
                               牧師:屼ノ下照光

3月のみ言葉

さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』。これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」     (マタイ 27章45〜46節)


            「マタイ受難曲」                 

 レント(四旬節)を過ごしています。この時期、私はJ.S..バッハの『マタイ受難曲』、『ヨハネ受難曲』を繰り返し聴いています。
 五味康祐という作家がいました。『柳生武芸帳』などの剣豪小説で知られた作家であり、また、クラシック音楽やオーディオの評論家としても知られています。彼の音楽に関するエッセー集に『天の聲〜西方の音〜』というのがあります。その本に「マタイ受難曲」という文があります。その中で彼は、「バッハの『マタイ受難曲』は、単に至高の音楽であるばかりでなく、おそらく、古今を通じ人類が有った最高の傑作だろう」と語り、自らの通夜のとき、「通夜に集うてくれた少数の知人と一緒に、死の床で静かににこの曲をきかせてほしいと念う」と書いています。さらに、彼の文章から紹介したいと思います。

 マタイを聴いて、私がもっとも驚き且つ感動するのは、囚人バラバにかわってイエスを十字架にかけよ、と叫ぶ群衆の凄まじい迫力を描いたあたりである。不吉な減七和音で、「バラバ!」と叫ぶ群衆の劇的迫力は言語に絶するものがある。のみにかぎらない。全曲を通じて、およそ神の子イエスを罵り、彼は死にあたるものだと叫び(42曲)、イエスの流す血の責任はわれわれとわれわれの子孫の上にかかってもいいと言い(59曲)。さらにはユダヤ人の王ばんざいと嘲弄する(62曲)。愚かでこう言っていいなら、まことに瀆神的な群衆を、驚くべき迫真力でバッハは描破している。こんなことが、だが許されていいのかと日本人の私は怪しむのである。
 もちろん、バッハは“マタイ伝”第26章および第27章をテキストとしてこの受難曲を書いた。イエスをののしる群衆の有様は聖書に記されているのだから、そのまま活写してふしぎはないようなものの、申すなら、そこには神に仕える者には目を蔽いたい瀆神のくだりである。凄まじい迫力でそれを作曲できるというのは、つまりはバッハの中に神を冒瀆する群衆が棲んでいるからではないか?

 五味氏の指摘はたいへんおもしろいと思います。巨匠レンブラントが主イエスの十字架の場面に自らの姿を描きこんだように、バッハも彼の作品の中に、主イエスを十字架につけた罪人である彼自身を登場させたということなのでしょうか。私たちは、どうでしょうか。主イエスの十字架の周囲で、ただ傍観者として立っているだけなのでしょうか。そうであるなら、十字架の大きな愛と恵みをいただくことはできません。私もまた、主イエスを十字架につけた張本人として十字架の前に立たなければならないと思うのです。
                             牧師:屼ノ下照光

2月のみ言葉

 イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも行っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」。       
                 (マタイによる福音16章17〜18節)



             「イエス・キリストの教会」        
 ある日曜日の礼拝前の祈りの時、一人の女性がお祈りされました。彼女は、「天のお父さま、私は、あなたなしでは生きることはできません。あなたの教会でこそ、あなたに出会えます」と祈られました。その祈りに私は深い感動をおぼえました。1970年に洗礼を受けて以来今日まで、私もあわれみ深い神さまの赦しをいただき、主イエス・キリストの教会の中で守られ、支えられてきたことを、改めて思い起こすことができました。
 
 マタイ16章13〜20節は、「ペトロの信仰告白」としてよく知られているところです。主イエスさまは弟子たちに尋ねられました。「人々は、人の子(イエス)を何者だと言っているか」。弟子たちは口々に、イエスさまについての世間の噂を答えました。ある人たちは「洗礼者ヨハネだ」と言い、「エリヤだ」、「エレミヤだ」、「預言者の一人だ」と言っていたようです。
 そこで、主イエスさまは再び尋ねられます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。これは、私たち一人一人に向けられた、ほんとうに大切な質問です。「あなたは、わたしを何者だと言うのか?」と主イエスは、今日、この私に問うておられます。主イエスさまの問いにペトロは答えました。「あなたはメシア、生ける神の子です」。“メシア”というのは「救い主」という意味です。私を愛し、私の罪を赦し、それによって私を真に活かし、私の存在を意味あるものとして認め、いつも私と共にいてくださる“生ける神の子”なのです。
 「あなたはメシア、生ける神の子です」という答えを受けて主イエスさまはペトロに言われました。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」。イエスを救い主と告白する信仰は、神から与えられるものであると主イエスさまは語っておられます。私たちが、「イエス・キリストは主である」(フィリピ2章11節)と告白して教会に導かれたのは、私たちの力とか知恵によるのではありません。それはまったく、神の恵みの導き、聖霊なる神のお働きによるのです。
 主イエスはペトロに、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と語っておられます。主イエスさまは、シモンに“ペトロ(岩)”という名前を与え、その岩の上に「わたしの教会を立てる」と語っておられます。これは、「イエスさまこそまことの救い主、キリスト、私の主」という信仰の告白の上に教会を建てるということです。外見がどのように小さく、みすぼらしく、貧弱であっても、「イエス・キリストは主である」という信仰告白の上に立っているならば、いささかも揺らぐことのない岩の上に建てられた教会なのです。

 私たちの桔梗が丘ルーテル教会も、ペトロと同じ信仰の上に、主イエスさまご自身が建ててくださった教会です。主イエス・キリストが呼び集めてくださった私たち一人一人、そして、さらに主イエスさまが呼び集めようとしておられる人々とともに、この教会において主イエスさまの語りかけを聞きながら、共に歩ませていただきたいと思います。

                             牧師:屼ノ下照光



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