3月の御言葉

悲しむ人々は、幸いである、
 その人たちは慰められる。
   (マタイによる福音書 5章 4節)

慰 め                   牧師:屼ノ下照光
私が担当している松阪ルーテル教会では、月一回、「詩画と聖書に親しむ会」が開催されています。毎回、星野富弘さんの詩画の一編を選んで鑑賞し、参加者が互いに感想などを述べ合い、また、聖書のみ言葉を聞いています。
今年、2月の「詩画と聖書に親しむ会」では、クリスマスローズのきれいな絵にそえて、次のような詩がありました。
      悲しい時に
      悲しめる 心を持っている
      あふれ出る 涙がある
      なんという 慰めだろう
クリスマスローズの花言葉のひとつに、「慰め」があります。この花言葉を知って、星野さんがクリスマスローズの絵に、なぜこのような詩をそえられたかが納得できました。
私は、この詩に触れて、イエスさまが語られたみ言葉を思い起こしました。
「悲しむ人々は、幸いである、
         その人たちは慰められる」 (マタイによる福音書 5章 4節)
私たちは、生きている中で、さまざまな悲しみや嘆きを経験します。そのような「悲しむ者」は幸いであるとイエスさまは語っておられます。たいへん不思議な言葉です。「慰める」と訳されているギリシア語「パラカレオー」という言葉には、「招く」、「呼び寄せる」という意味があります。悲しむ人々こそが、神さまに呼び寄せられ、招き入れられて、包み込まれるというような印象の言葉ではないでしょうか。「悲しむ」というギリシア語「ペンソウ」という言葉には、「嘆く」、「死を悼む」という意味もあります。愛する者の死は、悲しみの極みです。その悲しみの極みの中にある人々にイエスさまは、「悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる」と語っておられます。ある女性のご召天50日の記念の祈りの時、私は、ご遺族の方々にこのイエスさまのみ言葉を紹介して、「不思議な言葉ですが、ほんとうに深く悲しむところでしか得られない慰めがあるのではないかと思います」とお話させていただきました。愛する者の死は、確かに悲しみの極みですが、キリストの復活に与る信仰者は、死のかなたにも、キリストと共に永遠に生きるという希望が与えられています。その希望のゆえに、私たちは、愛する人との別れにおいて、深く深く悲しみ、涙を流してよいのです。その悲しみの極みにおいてこそ、主イエス・キリストは、悲しむ者を、そのふところに呼び寄せ、しっかりと抱きとめてくださるのです。
星野富弘さんの、このクリスマスローズに寄せた詩は、悲しみや涙について、私たちの心を新たに開かせてくれる言葉のように思いました。「悲しむことができる」、「涙をながすことができる」そのことこそが慰めであると語られています。私は、「悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる」と語られたイエスさまの愛の御心を、しっかりととらえておられる星野さんに、深い感動をおぼえました。私自身、星野さんのこの詩に触れて、あらためて、イエスさまのみ言葉の深みに触れる思いがしました。この詩に触れることができたことを感謝しています。

2月の御言葉

 「私の目には,あなたは高価で尊い」   イザヤ書43章4節

 すばらしいキミへ
 スフィンクスの有名な謎かけに、
「朝は4本足、昼は2本足、夜になると3本足になるものは何か」というものがあります。
 通りかかる人に謎をかけ、正解できなかった者は食べてしまったということです。
オイディプスが、「それは人間だ。赤ん坊の時は、はいはいをするから4本足、成長すると2本足で歩き、老年になると杖をつくので3本足だ」と解き、スフィンクスを退治したという神話です。
 私たちは、自分自身に対して、どんなイメージを持っているでしょう。自分の足で立ち、思うところに自由に行き、なんでも自分の力でなすことが出来る。それこそが本来の自分なのでしょうか。親や大人に頼らなければ何も出来なかった赤ん坊の頃はどうでしょう。また、年を重ねて、今まで出来たことがだんだん出来なくなれば、もはや自分ではなくなるのでしょうか。
 あるいは、様々な不自由さを抱えて、出来ないことが多い人のことを憐れみ、自分はそうなりたくないと思うでしょうか。

『すばらしいキミへ』という大好きな讃美歌があります。

  人に何を言われても だれかに無視されても   それでも キミはすばらしい
  自分を飾らなくても  人の目を引かなくても   それでも キミはすばらしい
  キミが生まれる前から キミをつくられた方が
   『キミはすばらしい、すばらしい』と言われたから

  いつも頑張れなくても  何度も失敗しても それでもキミはすばらしい
  心が疲れ果てても  自分がイヤになっても それでもキミはすばらしい
  キミが生まれる前から キミをつくられた方が
   『キミはすばらしい、すばらしい』と言われたから

  たとえいつの日かキミが 何も出来なくなっても それでも キミはすばらしい

 今年も総会を迎え、私たちの教会はまた新たな一歩を踏み出します。神さまは、私たちをかけがえのないものとしてこの世にあらしめ、イエスさまを身代わりにされるほどまでに愛してくださいました。私たちが何か出来るからではなく、何も出来なくても、私たちの存在自体を、変わらず愛し続けてくださいます。その神さまの愛を受けて、お互いの存在を大切にする教会として、今年も歩んでいきたいと思います。 (補教師:北山 琢)

 



1月の御言葉

初めからのことを思い出すな。
昔のことを思いめぐらすな。
見よ、新しいことをわたしは行なう。
今や、それは芽生えている。
あなたたちはそれを悟らないのか。
わたしは荒れ野に道を敷き
砂漠に大河を流れさせる。
 
     (イザヤ書 43章 18〜19節)


何かが起ころうとしている
 みなさん、私たちの主の年、2019年の新年、あけましておめでとうございます。
 この新しい年、主なる神さまが、私たちの教会とその交わりを豊かに祝福してくださるよう、お祈りいたします。
昨年秋から新年にかけて、桔梗が丘ルーテル教会では、大きな変化の時となりました。北山琢先生は、10月1日付でこの教会の補教師に就任されました。11月23日には結婚式を挙げられ、12月にはめぐみ姉と共に牧師館に移られました。私、屼ノ下牧師は、11月1日付で四日市ルーテル教会牧師も担当することになり、11月19日には四日市ルーテル教会の牧師館に引っ越ししました。また、2010年10月から私たちの教会でご奉仕くださった栗かおり先生は、この1月1日付で帝犹灰襦璽謄覿飢颪療粗算佞暴任されました。今後、住居も帝塚山教会に移し、帝塚山教会を中心に大阪地区でご奉仕されることになります。先生の長年のご奉仕に深い感謝をおぼえます。そのような訳で、この教会の働き、牧会は、北山琢補教師が中心になって担ってくださいます。栗かおり先生の新しいお働き、北山琢先生のご家庭とお働きに、主なる神さまの大いなる祝福が注がれますよう、お祈りください。
 大きな変化に、私たちは不安や戸惑いをおぼえることがあります。しかし、一方で変化は、期待や希望をももたらしてくれます。私たちの教会の今回のこの大きな変化を、あらたの希望のチャンスととらえたいと思います。
 イザヤ書40章以下には、バビロン捕囚という大きな苦しみを経験した民に、捕囚からの解放のメッセージが告げられ、新しい時代の到来が語られています。50年以上も、異国の地で捕囚として歩み、疲れ切り、神さまに見捨てられたと絶望していた人々に、主なる神さまは、預言者をとおして、「見よ、新しいことをわたしは行なう。今や、それは芽生えている」と語りかけてくださいました。
私たちのこの教会に、今、新しい何かが起ころうとしています。主なる神さまが、この教会に、新しいことをなそうとしておられます。神さまが備えてくださる希望をいただき、神さまに期待して、この新しい年の歩みを始めましょう。(牧師:屼ノ下照光)

12月の御言葉

そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録せよとの勅令が出た。‥‥‥
ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めてに子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。     (ルカによる福音書 2章 1節、4〜7節)


               貧しさを負う救い主 
クリスマスおめでとうございます。
神の言葉、聖書が伝えるクリスマスの出来事は次のとおりです。皇帝アウグストゥス(BC27〜AD14在位)の支配のもとでローマ帝国全土で人口調査が行われました。皇帝アウグストゥスは、紀元前31年にアントニウスとムクレオパトラの連合軍を破って、最初のローマ皇帝となりました。この人口調査は、徴税と徴兵のためでした。当時ユダヤはローマの属国であり、人々は自分の生まれ故郷で登録しなければなりませんでした。
 若いヨセフとマリア(17,8歳と13〜15歳)は、ガリラヤのナザレからユダヤのベツレヘムまでの140劼らいのところを旅しなければなりませんでした。身重のマリアにとっては非常に厳しいものでした。ここに、権力者の都合によって振り回される民衆の姿を見ます。長い旅の末にベツレヘムに着いた彼らには、疲れた体を休める場所もなく。粗末な家畜小屋で夜露をしのがなければなりませんでした。そこでマリアは赤ちゃんを産みました。神の独り子の誕生です。
 聖書は、貧しく、みすぼらしい中で神の御子が誕生したことを報告しています。ここには本来、きらびやかであたたかな宮殿で生まれるべき方が、自らを低くして貧しい誕生をされたということが語られているのではありません。神の御子の誕生は、神さまがどんなに私たち人間を愛し、大切にしてくださっているかということの現れです。聖書が語る神の愛は、力ある者、富や権力を持てる者が、テレビ・ドラマの水戸黄門のように身をやつして民衆の中に入ってお情けを与えるなどといったものとはまったく違うのです。神さまがご自身の「愛」を現そうとされたとき、このような姿にならざるを得なかったということなのです。
 ここには、力をもって抑えつけたり脅したりして人を従わせようとする姿勢は見られません。抑えつけたり脅したりするのは決して「愛」ではありません。当時、ローマ皇帝は、その強大な権力のゆえに「神」とあがめられました。彼は、強大な軍事力と富とによって人々を抑えつけ、自ら神のようにふるまいました。しかし、まことの神さまは、貧しさとみすぼらしさの中に、ご自身の「愛」を現されました。神の独り子イエス・キリストは貧しい家畜小屋での誕生から惨めな十字架の死にいたるまで、一貫して神の愛を語り、その愛を注ぎ続けてくださいました。
 私たちは、それぞれに自分自身を世界の中心にしようとする「内なる帝国」を持っています。自らその帝国の皇帝になろうとします。その内なる帝国、エゴイズムを聖書は「罪」と呼びます
そして、それが私たちを苦しめています。そこでは、互いに尊敬し合い、感謝し合い、信頼し合い、赦し合い、助け合い、励まし合い、支え合い、喜び合うという「愛と平和」は失われてしまっています。今日の大きな問題、幼児虐待、いじめ、ドメスティックバイオレンス、パワーハラスメントなどは、まさにそのような愛が失われた結果ではないでしょうか。
神の独り子イエス・キリストは、そのような「愛」を失っている私たちのところに、最も貧しく、最も低い姿でおいでになり、飼い葉桶の中から、「ここに愛がある、ここに平和がある。あなたもここに来て、その愛を受け取りなさい。その愛をもって出て行きなさい」と語りかけてくださっているのです。  (屼ノ下 照光)

11月の御言葉

御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。
                   (競謄皀 4章 2節)


               御言葉を宣べ伝えなさい

 北山琢先生は、10月1日付で桔梗が丘ルーテル教会の補教師に就任され、21日(日)の礼拝の中で補教師就任式が執り行われました。11月23日には、結婚式も執り行われます。ご結婚後、お二人は牧師館に移られ、新しい歩みを始められます。近畿福音ルーテル教会に新しい教職が誕生したこと、そして、桔梗が丘ルーテル教会に新しい働き人が与えられたことは大きな喜びです。共に、私たちの神さまに感謝いたしましょう
 補教師就任式では、テモテへの手紙二4章1〜2節、5節の御言葉が読まれました。
 「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えなさい。どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい」
 就任式では、北山琢師が、「補教師に就任し、忠実にその職務を行い、福音宣教のわざに励むように努めることを約束します」との約束を力強く表明されました。
教職の就任式では、就任者の誓約に続いて、教会員にも誓約が求められます。そこでは、司式者によって次のような問いかけがなされました。「桔梗が丘ルーテル教会の愛する兄弟姉妹の皆さん、あなたがたは今、北山琢補教師の厳かな約束の言葉を聞きました。そこで私は、あなたがたに尋ねます。あなたがたは、主イエス・キリストによって、あなたがたのために立てられ、与えられた北山琢補教師を受け入れ、彼のために祈り、主にある愛と尊敬とをもって交わりを築くことを約束しますか。また、北山琢補教師と共に、主に仕え、主に従うことを約束しますか」。これに対して会衆席からも、「はい、神の助けによって約束いたします」との応えが返ってきました。
 私は、就任式の司式の任を与えられた時には、いつもこのところで深い感動をおぼえます。御言葉を宣べ伝える福音宣教は、決して牧師や教職だけでできるものではありません。それは、主イエス・キリストの枝、群れとされた教会全体で行なうものなのです。
会衆の誓約の言葉にありましたように、どうぞ、北山琢補教師の働きとこれから築かれる家庭のためにお祈りください。また、主にある愛と尊敬をもって北山先生と共に、主に仕え、主に従ってまいりましょう。
どうぞよろしくお願いいたします。          (屼ノ下照光)

10月のみ言葉

ハレルヤ
新しい歌を主に向かって歌え。
主の慈しみに生きる人々の集いで賛美の歌をうたえ。
                  (詩編 149編1節)


               賛美の歌を歌え

 10月28日(日)は、宗教改革主日賛美礼拝です。この日、讃美歌を中心とした礼拝をまもります。みんなで、心から神さまを賛美しましょう。
 マルティン・ルターによる宗教改革は、礼拝をも大きく変えました。彼は、礼拝の中に、会衆が自国の言葉で讃美歌(コラール・衆賛歌)を歌うことをはじめました。ルター自身、たくさんの讃美歌を作詞作曲しています。
 ある牧師さんは、「キリスト教の礼拝の最大の魅力は『歌う』ということにある」と語っておられます。私もそう思います。讃美歌を歌うということがなかったら、私たちの礼拝は、ほんとうに味気ないものになるだろうと思います。
 
 讃美歌をうたうということは、「歌による神さまへの賛美」であり、「歌による神さまへの祈り」であるということができます。キリスト教会は、その歴史を通してたくさんの讃美歌を生み出してきました。また、福音宣教の拡大の中で、世界中のさまざまな国、民族の音楽をもってすばらしい讃美歌を生み出してきました。ルーテル教会の合同讃美歌委員会では、来年秋に、『教会讃美歌補遺機戮出版される予定です。この歌集には、ルターの曲、公募によって採用された曲、そして日本の新しい讃美歌が紹介されることになっています。この『教会讃美歌補遺』は、全部で3冊発行される予定になっています。世界中の新しい讃美歌も紹介されます。
 
 讃美歌は、個人の信仰生活においても、大きな慰めになったり、励ましになったりします。それぞれに愛唱の讃美歌があると思います。ある牧師さんは、愛唱の2〜3曲は、讃美歌集を見ないでも歌えるものがあれば、大きな慰めになるだろうと勧めておられます。
 そして、何よりも、礼拝の場で兄弟姉妹たちと声を合わせて歌うことは、信仰生活の大きな喜び、力となります。礼拝の場における讃美歌は、兄弟姉妹が共に神さまにささげる祈りとなります。そのような讃美歌を共に歌うことを通して、私たちは神さまへの信仰を互いに確認し合い、神さまからの恵みを分かち合うのです。また、祈りとしての讃美歌を共に歌うことを通して、私たちは「神の民」として形づくられ、信仰が新たにされるのです。いにしえの信仰者も、「主の慈しみに生きる人々の集いで賛美の歌をうたえ」と勧めています。
 10月28日(日)の賛美礼拝に、お友だちや近所の方々を誘っておいでください。なお、この日の礼拝後には、ミニ・バザーも予定されています。

                                (屼ノ下照光)

7月の御言葉

弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いのかという議論が起きた。イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、言われた。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」。                      
                    (ルカによる福音書 9章46〜48節)

            子どもたちの前でへりくだる     
                                   
 7月29日(日)、30日(月)は、子どもキャンプです。参加する子どもたちと、プログラムのすべてが守られるよう、お祈りください。また、このキャンプにお手伝いいただける方、献品などでご協力いただける方は、どうぞよろしくお願いいたします。
 今日、教会学校が行なわれている教会は、ずいぶんと少なくなりました。たいへんさびしいことです。幸い、私たちの教会では、毎週、多くはありませんが、子どもたちが集って、元気に神さまを賛美し、み言葉を聞いています。また、礼拝の中でも、子どもたちの声が聞こえることは、大きな喜びです。教会学校のこの灯火が消えることがないようにと、教会学校の先生方が毎週日曜日、朝早くからご奉仕くださっています。先生方お一人おひとりに、心から感謝申し上げます。教会学校教師としてご奉仕くださっている兄弟姉妹たちのことも、おぼえてお祈りいただきますよう、お願いいたします。

 私も、子どもたちを前にお話しさせていただいていますが、そんな時、もう40年以上も昔のことを思い起こします。神学校入学を前にしていた私は、西奈良ルーテル教会で伝道実習生としてお世話になっていました。時々、教会に隣接する保育園で、園児たちの礼拝でお話をしたり、子どもたちと遊んだりしていました。ある日の夕方、子どもたちと遊んでいるとき、私は、転んでいた“しんちゃん”という男の子の後ろから、ふざけてボールを軽くぶっつけて、笑ってしまいました。私自身は軽い気持ちだったのですが、しんちゃんは振り向いて、涙顔で私を見つめて、「いつもイエスさまの話をしてくれているのに」と言いました。いつもイエスさまの話をしている私のそのような態度が彼には許せなかったのでしょう。

 昔々の話ですが、このことは、私には、忘れられないできごとになっています。子どもたちと関わり、子どもたちに聖書のお話をするとき、このことがよみがえってきます。そして、私は、誰よりも、神さまと幼子たちの前にへりくだり、謙虚でなければと、いつも自らを戒めているのです。
                                 屼ノ下照光

6月の御言葉

「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」          (フィリピの信徒への手紙 4:6〜7)


              絶えず祈りなさい

最近、阪田寛夫さんの詩集に、たいへんおもしろい詩をみつけました。「祈りについて」という詩です。以下にそれを紹介いたします。

     祈りについて


    久しぶりに祈ろうとしたら
    神さまの呼び方を忘れてる
    主よ、と呼びかける資格はなし
    あなた、は何とも馴れ馴れしいし
    やっぱり神さま わたしはだめです 助けて下さい
    と本音が出た
    他人のことも祈りますから、と謝って
    片端から祈ると気が楽になり
    一番いやな奴のためにも祈ったら
    そいつの分だけ善人になった積りが情けない
    しらけて開けた目に粉雪舞ってる
    神さま、どうか風邪をひかないで下さい

 童謡「サッちゃん」の作詞者として有名なクリスチャン作家の信仰的なまじめさがよく表されている詩に、思わず笑ってしまいました。
聖書に、「絶えず祈りなさい」(汽謄汽蹈縫5章17節)と語られています。私たちが祈るのは、決してあたりまえのことではありません。主イエス・キリストの恵みの中で、神さまご自身が、「祈りなさい。わたしはあなたの祈りを聞く」と語ってくださっています。「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」(詩編50編15節 口語訳聖書)。
私たちの祈りを、私たちの心の注ぎ出しを、確かに聞いて、しっかりと受け止めてくださる方がおられます。その恵みに感謝して、祈りましょう。           
                              (屼ノ下照光)

5月の御言葉

「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」      (エフェソの信徒への手紙 1:15〜23)

               教会はキリストの体        

 5月13日(日)は、恒例のバザー家族礼拝とバザーです。どうぞ、お友だち、近所の方々にお声をかけて、お誘いください。この日は、「昇天主日」でもあります。5月10日(木)は、教会暦では、主イエスさまの昇天日になります。
復活されたイエスさまが昇天され、父なる神さまの右に座しておられると、聖書は語っています。主のご昇天は、私たちを虚無の淵に突き落としてしまう罪と、私たちが最も恐れている死に対してイエスさまが完全に勝利してくださったことを表しています。そして、その主は、毎日毎日、この世において、苦しんだり、嘆いたり、つまずいたり、悲しんだりしている私たちと共にいてくださって、私たちのために、父である神の右に座して、執り成してくださっていると、聖書は告げています。
 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と語られたイエスさまは、今、どこにおられるのでしょうか。もちろん、主イエスはどこにでもおられるのですが、さらに具体的にいうなら、それは、「教会である」と言うことができるのではないでしょうか。エフェソ1章23節においてパウロは、「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」と語っています。教会こそが、今も生きて、私たちに語りかけ、私たちのために執り成してくださっている主イエスさまご自身がおられるところです。それは、実に私たちがイエスさまに出会う場なのです。
 私たちの礼拝で大切なことは、教会において、兄弟姉妹が共に集い、確かにそこにおられるイエスさまと出会ってイエスさまからの慰めと励ましとをいただき、兄弟姉妹ともに主を拝み、主を賛美することです。ルカ24章51〜53節には不思議なことが記されています。「そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」。
 主イエスが弟子たちを離れていかれた後、彼らは大喜びで帰り、絶えず神さまをほめたたえていた、と記されています。ここにはイエスさまのご昇天とイエスさまを礼拝することが一つのこととして語られています。これは、イエスさまのご昇天というのは、弟子たちとイエスさまの別離ではなく、むしろ、両者を深く結びつける出来事であったということを表しています。そして、パウロは、イエスさまと弟子たち、すなわち私たちが深く結び合わせられる場所こそが、イエスさまが満ち満ちておられる教会であると語っているのです。                              
                               (屼ノ下照光)

3月の御言葉

祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。(マタイによる福音書 27章12〜14節)

苦役を課せられて、かがみ込み / 彼は口を開かなかった。
毛を切る者の前に物を言わない羊のように / 彼は口を開かなかった。           
                       (イザヤ書 53章 7節)


                 救い主の沈黙           

 マタイによる福音書27章には、民の宗教的指導者たちが、ねたみのために、イエスさまをローマ総督ピラトのもとに訴えるという裁判のようすが語られています。その裁判の場でイエスさまは、ピラトが驚くほどに何もお語りになりませんでした。それによって、ここには、人間の内にあるねたみ、優柔不断さ、責任のがれ、そして心の奥にひそむ残忍さといったものが、よりはっきりと表されているように思います。私自身は、この場面を読んだり、バッハの『マタイ受難曲』を聞いたりするとき、沈黙のうちに私を見つめておられる主イエスさまのまなざしを感じます。そして、私のうちにあるねたみ、優柔不断さ、責任のがれ、そして心の奥にひそむ残忍さ、心の奥底のどす黒い罪があばかれているような感じを抱きます。かつて、泉北教会で『十字架と復活』という人形劇が演じられました。私は、祭司長の役をいただき、この裁判の場面で、「イエスを十字架につけろ」と叫びました。その時、私自身が、心の底から、「イエスを十字架につけろ」と叫んでいるような印象を受け、戦慄をおぼえました。
 イエス・キリストの前に出るということは自分のうちにある、ねたみ、優柔不断さ、責任のがれ、心の奥にひそむ残忍さというものがあらわになるということなのだろうと思います。
 しかし、聖書は、私たちの醜い罪の姿を暴くだけではありません。聖書は、苦しめられ、侮辱されながらも、沈黙をまもられた主イエスさまをさし示して、茨の冠をつけられ、十字架を負われたこの方こそ、あなたがたの救い主、どうしようもない罪に苦しむあなたをそのままに受け入れ、あなたの病と苦しみ、罪を担う救い主であると語っているのです。
 今年の復活祭は、4月1日(日)です。この日は家族礼拝と昼食会、祝会を行ないます。どうぞ、ご予定に入れてくださり、誘い合って教会においでください。
 復活祭の前の一週間は、「受難週・聖週」と呼んで、イエス・キリストのご十字架教のご受難を偲ぶ時として、教会では古くから大切にされてきました。私たちの教会でも、次ページのように、受難週と復活祭のプログラムを用意しました。どうぞ、教会におでかけください。
                              牧師 屼ノ下照光


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    (近畿福音ルーテル桔梗が丘教会)
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