7月のみ言葉

7月のみことば 
  わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。           (ヨハネによる福音書 15章5節)


               主イエスはぶどうの木             
 旧約聖書では、神さまが創り、治めておられるこの世界がぶどう畑にたとえられ、その世界に置かれている神の民がぶどう畑に植えられたぶどうにたとえられています(イザヤ書5章)。

 5年前、私は議長と共にシンガポール、タイ、オーストラリアの教会を訪ねる機会が与えられました。その旅行中、オーストラリアで一日だけ自由時間があり、私たちはワイナリー巡りのバスに乗りました。たいへんおいしいワインをいただきながら、どこまでも広がる緑のぶどう畑をながめていた時、私は、聖書が、ぶどう畑とぶどうを神さまの祝福の象徴として語っている意味が、なんとなくわかったように感じました。その美しい風景は、確かに神さまの大きな祝福をあらわしているように思いました。

 主イエス・キリストは、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と語っておられます。そして、4節では、「わたしにつながっていなさい」と語りかけておられます。このように聞きますと、何ごとにもだらしない私は、「はたして、私は主イエスさまにつながっているのだろうか」と不安をおぼえます。しかし、主イエスは、「わたしにつながっていなさい」という言葉に続いて、「わたしもあなたがたにつながっている」と語っておられます。このところを本田哲郎神父さんは、「わたしにつながっていなさい。わたしのほうからは、つながっているのだ」と訳しておられます。

 私は、これまでの信仰の歩みの中で、主イエスさまが私から遠く離れておられるのではないかという思いに囚われ、大きな不安を感じたことがしばしばありました。それは、自らの罪、弱さを思い知らされた時であり、大きな失敗、問題にぶつかった時でした。しかし、後になってわかったことは、そのような時にも、まことのぶどうの木である主イエスさまは、弱々しく貧弱な枝である私をしっかりとつかまえていてくださっていたということです。そして、私をつかまえながら、「わたしにつながっていなさい」と語り続けてくださっていたのです。

 私たちは、主イエスというぶどうの木につながる枝です。そのイエスさまが私たちに実を結ばせてくださいます。その枝が、どんなに貧弱で、弱々しく見えても、主イエスさまがつながっていてくださるので実を結ばせてくださいます。その実は、人の目にすぐにそれと分かるものではないかもしれません。それゆえ、「あの人は実を結んでいる。あの人には実がない」などと言えるものではありません。しかし、主イエスさまがつながっていてくださり、主がみ言葉を語り続けてくださるので、愛と平和をもたらすような実を結ばせてくださいます。私たちの罪のゆるしのための主イエスさまの十字架が、その約束のしるしなのです。                          (屼ノ下照光)

6月のみ言葉

雨も雪も、ひとたび天から降れば
むなしく天に戻ることはない。
それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ
種蒔く人に種を与え、
食べる人には糧を与える。
そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も
むなしくは、わたしのもとに戻らない。
それはわたしの望むことを成し遂げ
わたしが与えた使命を必ず果たす。 (イザヤ55章10〜11節)



               「神さまのみ言葉」             
 私は、毎月2回、日曜日午後の美杉教会の礼拝に出かけることをいつも楽しみにしています。小さな群れではありますが、共に神さまを賛美し、共に神さまの恵みに感謝をささげるという大きな喜びをいつも感じています。そして、美杉教会までの名張川に沿って走る27Kmのドライブは、この新緑の時期、ほんとうに気持ちのよいものです。これからは、アユをねらう釣り人の姿も見ます。また、山々の四季折々の移り変わりは目を楽しませてくれます。途中、猿の親子や谷川の水を求める鹿に会ったりもします。
 梅雨に向かうこの季節、車を走らせながら、美しい山々を映し出す田んぼや、みずみずしい緑の山を立ちのぼる霧を見る機会が多くなります。そんなとき、私は、イザヤ書55章のこのみ言葉を思い起こします。
 最近、政治家などの言葉に失望させられることが多くあります。政治家だけではありません。私の口からも、無意味でむなしい言葉、人を傷つけるような言葉が多く出ているのだと思います。主よ、私を憐れんでください。 
 神さまは、ご自身のみ言葉によってこの世界と私たちのいのちを創り、そのみ言葉によってそれを支えてくださっています。神さまのみ言葉には力があるので、確かに、私たちを、救い主イエス・キリストへと導いて救いを与えてくださいます。そして、私たちを潤し、私たちを慰め、励ましてくださいます。神さまは、み言葉の語りかけによって、私たちを優しく包み込んでくださいます。
日ごとに語りかけられる神さまのみ言葉、礼拝ごとに語りかけられる恵みのみ言葉を、主よ、感謝いたします。
                              牧師:屼ノ下照光

5月のみ言葉

もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。‥‥‥わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配する者も、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。           (ローマの信徒への手紙 8章31節、38〜39節)


              「神がわたしたちの味方」   
          
 パウロは、「神さまがわたしたちの味方である」と語っています。この月報では、ローマ8章31節、38〜39節だけを紹介していますが、31〜39節を、ぜひ読んでください。ここでパウロは、御子イエス・キリストを私たちに賜るほどに愛してくださった神さまは、御子の十字架と復活によって、私たちの罪を赦し、私たちを神さまの前に義なる者としてくださった。さらに、御子は今も私たちのために執り成し、支えてくださっているのだと語っています。パウロは、神に背を向け、神に敵対し、罪でしかない私たちに代わって、十字架を負ってくださった主イエス・キリストのうちに、私たちの想像をはるかに超えた神さまの大きな愛を見たのです。そして、彼は、この“神の愛”から、何ものも私たちを引き離すことはできないのだと勝利の宣言をしているのです。「神がわたしたちの味方である」ということは、何とありがたいことでしょうか。私は、3月で定年を迎えました。18歳の時に洗礼の恵みをいただき、22歳の時から今日まで教会の中で働いてきました。多くの失敗をしたり、恥ずかしいこともたくさんありましたが、神さまは確かに、私の味方として、赦し、支え、その愛で包みこみ、豊かな祝福をもって導いてくださいました。ほんとうに、ありがたいことであり、大きな喜びです。

 私は、昨年4月から月に2回、志摩教会に行っています。志摩教会では復活祭に、召天者の記念の祈りの時をもっており、今年も、ご遺族の方々と、救い主のご復活をお祝いし、召天者記念の祈りをしました。その折に、このローマ8章31〜38節を読ませていただきました。4月になって4人の方々の召天者記念の祈りのときを持ちましたが、そのうちの3人の方々の時も、このところを読ませていただきました。パウロは、「死も、‥‥わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」と語っています。パウロは、コリント15章26節で、「最後の敵として、死が滅ぼされます」と語っています。イエス・キリストは、ご自身の十字架と復活によって、私たちに怖れを抱かせる罪と死に勝利してくださいました。主イエス・キリストの十字架とその死からの復活によって、私たちに対する深い愛を示してくださった神さまが、“確かな味方”なのです。どんなことがあっても、私たちは見捨てられることがありません。召された方々と、今、さまざまな苦労をしながら歩んでいる私たちの共通の味方、それが、私たちを深く愛してくださっている神さまなのです。
                               牧師:屼ノ下照光

4月のみ言葉

ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」。   
                     (使徒言行録 18章9〜10節
 



              「わたしの民が大勢いる」      

 使徒言行録15章36〜18章22節には、パウロの第二回伝道旅行のことが記されています。この伝道で、主イエス・キリストの福音は、アジアからヨーロッパに広がっていきました。その伝道は決して容易ではなく、投獄されたり、ユダヤ人のねたみの中で騒動に巻き込まれたりしながらの活動でした。

 17章16節以下にパウロのアテネでの伝道活動のようすが記されています。そこでは、ユダヤ人たちと論じ合っただけではなく。哲学者たちとも討論したと語られています(17:18)。パウロの説教が17章22〜31節に記されています。ぜひ、読んでみてください。パウロは、アテネの人たちの宗教心に訴えつつ、イエス・キリストの復活について語りました。ところが、主イエスの復活についての話を聞いたアテネの人たちは、とたんにパウロのもとを去って行きました。聖書は次のように報告しています。「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらおうことにしよう』と言った。それでパウロは、その場を立ち去った」(使徒17:32~33)。
 パウロはおおいに気落ちしていたのかもしれません。アテネを去ったパウロは、コリントに行きました(使徒18:1)。そこで彼は協力者となるアキラとプリスキラという夫婦と出会い、同労者、シラスとテモテと再び合流して、さまざまな反対や妨害を受けながらも福音宣教に励みました。コリントの町では多くの人たちが信仰に導きいれられたようです。「会堂長のクリスポは、一家をあげて主を信じるようになった。また、コリントの多くの人々も、パウロの言葉を聞いて信じ、洗礼を受けた」(18:8)。
 そのころ、アテネの人たちがあざ笑った復活の主イエスが幻の中でパウロに現れて語りかけられました。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」。この主の言葉に励まされて、パウロはコリントの町で1年6カ月にわたって伝道の働きを続けました。

 5月8日(日)は、桔梗が丘ルーテル教会恒例のバザーです。予定に入れてご出席ください。また、ご協力をお願いいたします。バザーへの出品のご協力もお願いいたします。
この桔梗が丘、名張の町にも、主イエスさまが、「わたしの民」と読んでおられる人たちが大勢おられます。その人たちと一緒に主なる神さまを賛美し、礼拝するバザー、共に楽しみ、喜び、感謝するバザーになるようにと、祈り、願っています。
                               牧師:屼ノ下照光

3月のみ言葉

さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』。これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」     (マタイ 27章45〜46節)


            「マタイ受難曲」                 

 レント(四旬節)を過ごしています。この時期、私はJ.S..バッハの『マタイ受難曲』、『ヨハネ受難曲』を繰り返し聴いています。
 五味康祐という作家がいました。『柳生武芸帳』などの剣豪小説で知られた作家であり、また、クラシック音楽やオーディオの評論家としても知られています。彼の音楽に関するエッセー集に『天の聲〜西方の音〜』というのがあります。その本に「マタイ受難曲」という文があります。その中で彼は、「バッハの『マタイ受難曲』は、単に至高の音楽であるばかりでなく、おそらく、古今を通じ人類が有った最高の傑作だろう」と語り、自らの通夜のとき、「通夜に集うてくれた少数の知人と一緒に、死の床で静かににこの曲をきかせてほしいと念う」と書いています。さらに、彼の文章から紹介したいと思います。

 マタイを聴いて、私がもっとも驚き且つ感動するのは、囚人バラバにかわってイエスを十字架にかけよ、と叫ぶ群衆の凄まじい迫力を描いたあたりである。不吉な減七和音で、「バラバ!」と叫ぶ群衆の劇的迫力は言語に絶するものがある。のみにかぎらない。全曲を通じて、およそ神の子イエスを罵り、彼は死にあたるものだと叫び(42曲)、イエスの流す血の責任はわれわれとわれわれの子孫の上にかかってもいいと言い(59曲)。さらにはユダヤ人の王ばんざいと嘲弄する(62曲)。愚かでこう言っていいなら、まことに瀆神的な群衆を、驚くべき迫真力でバッハは描破している。こんなことが、だが許されていいのかと日本人の私は怪しむのである。
 もちろん、バッハは“マタイ伝”第26章および第27章をテキストとしてこの受難曲を書いた。イエスをののしる群衆の有様は聖書に記されているのだから、そのまま活写してふしぎはないようなものの、申すなら、そこには神に仕える者には目を蔽いたい瀆神のくだりである。凄まじい迫力でそれを作曲できるというのは、つまりはバッハの中に神を冒瀆する群衆が棲んでいるからではないか?

 五味氏の指摘はたいへんおもしろいと思います。巨匠レンブラントが主イエスの十字架の場面に自らの姿を描きこんだように、バッハも彼の作品の中に、主イエスを十字架につけた罪人である彼自身を登場させたということなのでしょうか。私たちは、どうでしょうか。主イエスの十字架の周囲で、ただ傍観者として立っているだけなのでしょうか。そうであるなら、十字架の大きな愛と恵みをいただくことはできません。私もまた、主イエスを十字架につけた張本人として十字架の前に立たなければならないと思うのです。
                             牧師:屼ノ下照光

2月のみ言葉

 イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも行っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」。       
                 (マタイによる福音16章17〜18節)



             「イエス・キリストの教会」        
 ある日曜日の礼拝前の祈りの時、一人の女性がお祈りされました。彼女は、「天のお父さま、私は、あなたなしでは生きることはできません。あなたの教会でこそ、あなたに出会えます」と祈られました。その祈りに私は深い感動をおぼえました。1970年に洗礼を受けて以来今日まで、私もあわれみ深い神さまの赦しをいただき、主イエス・キリストの教会の中で守られ、支えられてきたことを、改めて思い起こすことができました。
 
 マタイ16章13〜20節は、「ペトロの信仰告白」としてよく知られているところです。主イエスさまは弟子たちに尋ねられました。「人々は、人の子(イエス)を何者だと言っているか」。弟子たちは口々に、イエスさまについての世間の噂を答えました。ある人たちは「洗礼者ヨハネだ」と言い、「エリヤだ」、「エレミヤだ」、「預言者の一人だ」と言っていたようです。
 そこで、主イエスさまは再び尋ねられます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。これは、私たち一人一人に向けられた、ほんとうに大切な質問です。「あなたは、わたしを何者だと言うのか?」と主イエスは、今日、この私に問うておられます。主イエスさまの問いにペトロは答えました。「あなたはメシア、生ける神の子です」。“メシア”というのは「救い主」という意味です。私を愛し、私の罪を赦し、それによって私を真に活かし、私の存在を意味あるものとして認め、いつも私と共にいてくださる“生ける神の子”なのです。
 「あなたはメシア、生ける神の子です」という答えを受けて主イエスさまはペトロに言われました。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」。イエスを救い主と告白する信仰は、神から与えられるものであると主イエスさまは語っておられます。私たちが、「イエス・キリストは主である」(フィリピ2章11節)と告白して教会に導かれたのは、私たちの力とか知恵によるのではありません。それはまったく、神の恵みの導き、聖霊なる神のお働きによるのです。
 主イエスはペトロに、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と語っておられます。主イエスさまは、シモンに“ペトロ(岩)”という名前を与え、その岩の上に「わたしの教会を立てる」と語っておられます。これは、「イエスさまこそまことの救い主、キリスト、私の主」という信仰の告白の上に教会を建てるということです。外見がどのように小さく、みすぼらしく、貧弱であっても、「イエス・キリストは主である」という信仰告白の上に立っているならば、いささかも揺らぐことのない岩の上に建てられた教会なのです。

 私たちの桔梗が丘ルーテル教会も、ペトロと同じ信仰の上に、主イエスさまご自身が建ててくださった教会です。主イエス・キリストが呼び集めてくださった私たち一人一人、そして、さらに主イエスさまが呼び集めようとしておられる人々とともに、この教会において主イエスさまの語りかけを聞きながら、共に歩ませていただきたいと思います。

                             牧師:屼ノ下照光


2016年 1月のみ言葉

従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエスご自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。       
                    (エフェソの信徒への手紙 2章19〜22節)

              「神の家族」

主の年2016年の新年あけましておめでとうございます。
 皆さま、それぞれにご家族そろってお正月をお迎えになったことと思います。今日、家族の姿、あり方が大きく変わってきていると言われています。アメリカでは2015年6月、すべての州で同性婚が認められました。また、日本では暮れに夫婦別姓の問題が話題になりました。同性のカップルであれ、夫婦が別姓であれ、あるいはシングルマザーの家庭など、どのような形であっても、その絆の大切さということは、決して変わるものではなく、ひとしく神さまの祝福の中にある大切な家族であると、私は思います。

 詩編133編には、夫婦が、親子が、兄弟が、家族が仲睦まじく一緒にいることの喜びと、そのような家庭に注がれる神さまからのあふれるばかりの祝福の約束が歌われています。
「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」(詩編133:1)。
しかし、現実には、家族といえども、さまざまな問題をかかえていることも事実です。聖書の中にも、兄弟がいがみ合うというエサウとヤコブのような例もあり(創27章以下)、さらには、聖書が語る人類最初の殺人は、兄カインが弟アベルを殺すというものでした(創4章)。それゆえ、兄弟が、家族が仲良く共に住むということは決して当たり前のことではなく、神さまからの大きな恵み、深い憐れみによるのだと思うのです。使徒言行録16章には、パウロに出会ったフィリピの牢獄の看守が神さまの大きな恵みの導きの中で、イエス・キリストを信じ、家族ともども洗礼の恵みに与かって喜んだという記事が記されています。

 パウロは、イエス・キリストの救いにあずかり、イエス・キリストの教会に呼び集められた者は、すべて“神の家族”であると語っています(エフェソ2章14〜22節)。「神の家族」というのはすばらしい言葉です。イエス・キリストの教会に呼び集められている私たちは、実にイエス・キリストに結び合わされた「神の家族」なのです。それゆえ、教会においては互いに兄弟姉妹と呼び合うのです。

 1月1日は私の受洗記念日です。1970年1月1日に、南大阪ルーテル教会の元旦礼拝において洗礼の恵みに与かりました。まだ新会堂が建てられる前の暗くて小さな礼拝堂で洗礼式が行われました。礼拝が終わると、いっしょに礼拝をまもっていた人たち‥‥私にとっては、その時、初めて出会う人たちでしたが‥‥その人たちが手を差し伸べて握手し、祝福してくださいました。それは、家族を離れてひねくれたように寂しく生きていた私が、家族として迎え入れられた瞬間でした。そのような経験は、15歳で田舎から大阪に出て来て、はじめてことであり、深い感動をおぼえました。18歳の時のことです。

 この年も、多くの方々がこの教会に導かれるようにと祈り、願っています。そして、この教会においでになる方々を、かつて私が迎え入れられたように、兄弟姉妹として、神の家族として、大きな喜びをもってお迎えしたいと思います。

 この新しい年も、それぞれご家庭に、ご家族に、神さまの祝福が豊かに注がれますようにとお祈りいたします。
                              牧師:屼ノ下照光

12月のみ言葉

  ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
  ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
  権威が彼の肩にある。
  その名は、「驚くべき指導者、力ある神
  永遠の父、平和の君」と唱えられる。 (イザヤ書9章5節)



            その名は「平和の君」
                           
 神の御子が家畜小屋で生まれ、飼い葉桶の中に寝かされました。それがクリスマスです。クリスマスカードなどには、この場面が美しく描かれていますが、私は、この場面をたいへん恐ろしいものと受け取っています。神の御子が汚い飼い葉桶に寝かされています。家畜の糞尿やよだれで汚れている飼い葉桶に神の御子が寝かされています。田舎で育った私の子どもの頃、家で飼っていた牛に餌をやるのが私の仕事でした。私はその汚れた飼い葉桶に触れるのもいやでした。神の御子がそのような飼い葉桶に寝かされています。
 
 これは、どういうことでしょうか。ここには、神の御子を汚い飼い葉桶に追いやっている人間、神を拒絶し、神を排除し、神をないがしろにしている人間、もっと強い表現をするなら、神を亡きものにしようとする人間の姿がここには表わされています。まさに、この家畜の糞尿とよだれで汚れきっている飼い葉桶のような自分自身が表わされています。いや、その飼い葉桶以上に汚れきっているのが私自身であり、私たち人間なのです。
この世界の中に、そんな自分自身に気づかないで、神を亡きものにして、自らを神のようにふるまっている人間の姿があります。互いに他者を見下したり、差別しながら、いがみ合ったり、憎みあったりしています。また、内には妬みや悪意など、醜いものがいっぱい詰まっています。今、ヨーロッパ、中近東では、テロとそれに対する報復という名の殺戮の罪の連鎖が繰り返され、悲しみと嘆きで満ちています。そんな惨めで、罪の姿、そして、私自身のどうしようもない罪の姿を、この飼い葉桶は表しています。
 
 クリスマスは、神が人を愛するあまりに、ご自身が人となっておいでくださった出来事です。愛するあまりに、神は人のもっとも醜い、罪のまっただ中にご自身を横たえられたのです。汚く悪臭を放つような飼い葉桶の中に、神は大切な独り子、御子を横たえられたのです。最も醜いところ、最も暗いところに神がおいでくださって、そこにもまた、神の愛が注がれているということを示してくださいました。汚れきった私たちの世界のただ中に、汚れきった私の奥深いところにおいでくださった神の御子を、聖書は、「平和に君」と呼んでいます。神さまは、このどうしようもない罪の世界に、神さまの「平和」を投げ込んでくださいました。罪と暗黒の世界においでくださった“平和の君”を共に仰いでクリスマスをお祝いしましょう。                  
                               牧師 屼ノ下照光


11月のみ言葉

「あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださった
 か、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい」
              (マルコによる福音書 5章19節《口語訳》)



               家族とともに
   
 私たちの教会では、毎月、“祈りの課題”を掲げています。一か月間、兄弟姉妹たちが心を合わせて一つの祈りに集中するということは大切なことだと思います。
 11月の祈りは、「家族のお一人お一人の救いをおぼえて」です。主イエスさまに出会って救いの恵みをいただいた者は、なんとかこの喜びを家族にも伝えたい、家族と共に神さまを賛美し、礼拝したいと願っています。家族そろって礼拝に集い、共に礼拝をまもることができたなら、どんなにかすばらしいことだろうと思います。
 
 9月に私は、泉北ルーテル教会で執り行われた葬儀前夜式に参列しました。ある教会員のお母さまの葬儀でした。お父さまは、私が泉北教会で牧師をしていた時に召され、私がお葬式、納骨式の司式をさせていただきました。お父さまが召された後、お母さまは近くの教会に通うようになり、主イエスさまと出会って洗礼を受けられました。さらに、二人の弟さんも洗礼を受けられたそうです。主なる神さまへの賛美と祈り、復活の希望をもって、ご兄弟3人でお母さまとのお別れの時を過ごしておられました。哀しみの中にも平安に満ちた葬儀でした。
 
 マルコによる福音書5章1〜20節には、主イエスさまが、悪霊に取りつかれた男の人をいやされたという物語が記されています。この人は墓場を住まいとしており、周囲の人たちから足枷や鎖で縛られるような状態であったようです。その足枷や鎖も彼は引きちぎり、夜も昼も叫んだり、自らを傷つけたりするという、たいへん苦しい状態にあったと聖書は記しています。その彼が主イエスさまと出会い、主イエスさまは彼から悪霊から追い出し、その苦しい状況から解放されました。どうすることもできない苦しみから解き放たれたこの人は、主イエスさまのお供をしたいと願いましたが、主はそれを許されず、「自分の家に帰りなさい。そして、身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」(マルコ5章19節《新共同訳》)と言われました。家族からも共同体からも排除されたような状態のこの人は、主イエスさまによって再び、家族と共同体のもとに戻されました。それだけでなく、神の恵み、神の救いのみ業を宣べ伝える宣教者とされたのです。
 
 私たちを救いの恵みに導きいれてくださった主イエスは、私たち一人一人もそれぞれの家族のもとに遣わしておられます。11月は、1日(日)に“全聖徒主日召天者記念礼拝”が執り行われます。また、8日(日)には、“子ども祝福式家族礼拝”とオープン・チャーチ・バーベキューが予定されています。また、クリスマスも近づいてきます。この機会に、愛するご家族の方々、ご両親やおつれあいさん、子どもさんやお孫さんたちを教会にお誘いください。家族と共に、主なる神さまを賛美しましょう。               
                          (牧師:屼ノ下照光)

10月の御言葉

     いかに幸いなことか
     ヤコブの神を助けと頼み
     主なるその神を待ち望む人
     天地を造り
     海とその中にあるすべてのものを造られた神を。

     とこしえにまことを守られる主は
     虐げられている人のために裁きをなし
     飢えている人にパンをお与えになる。
     主は捕われ人を解き放ち
     主は見えない人の目を開き
     主はうずくまっている人を起こされる。
     主は従う人を愛し
     主は寄留の民を守り
     みなしごとやもめを励まされる。
     しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる。

     主はとこしえに王
     シオンよ、あなたの神は代々に王。 ハレルヤ。    
                  (詩編146:5〜10)


 世界食料デー礼拝

 10月18日(日)は、“世界食料デー礼拝”です。今年も、日本国際飢餓対策機構の常務理事である清家弘久さんにおいでいただきます。清家さんから世界の飢餓問題と日本国際飢餓対策機構の働きについてお話ししていただきます。どうぞ、この礼拝にご出席ください。当日は、礼拝後に清家弘久さんを囲んで昼食をいただきます。カレーライスを用意いたします。
 この世界と私たち一人一人の大切な命を造り、支えてくださる主なる神さまは、虐げられている人、飢えている人に愛の目を注いでくださり、弱い立場にある寄留者、みなしご、やもめを守ってくださると聖書は告げています。そして、それが神さまの御心であると聖書は語っています。今、私たちのこの世界は、神さまの御心にかなっているのでしょうか? 食べ物に飽き足りている人たちがいる一方で、飢餓に苦しむ子どもたちがたくさんいます。また、紛争、テロなどによって難民となって苦しんでいる人たちも多くいます。神さまの前に、悔い改めを迫られているように思います。平和を祈り求める者でありたいと思います。
                               牧師:屼ノ下照光


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    (近畿福音ルーテル桔梗が丘教会)
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