2016年 1月のみ言葉

従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエスご自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。       
                    (エフェソの信徒への手紙 2章19〜22節)

              「神の家族」

主の年2016年の新年あけましておめでとうございます。
 皆さま、それぞれにご家族そろってお正月をお迎えになったことと思います。今日、家族の姿、あり方が大きく変わってきていると言われています。アメリカでは2015年6月、すべての州で同性婚が認められました。また、日本では暮れに夫婦別姓の問題が話題になりました。同性のカップルであれ、夫婦が別姓であれ、あるいはシングルマザーの家庭など、どのような形であっても、その絆の大切さということは、決して変わるものではなく、ひとしく神さまの祝福の中にある大切な家族であると、私は思います。

 詩編133編には、夫婦が、親子が、兄弟が、家族が仲睦まじく一緒にいることの喜びと、そのような家庭に注がれる神さまからのあふれるばかりの祝福の約束が歌われています。
「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」(詩編133:1)。
しかし、現実には、家族といえども、さまざまな問題をかかえていることも事実です。聖書の中にも、兄弟がいがみ合うというエサウとヤコブのような例もあり(創27章以下)、さらには、聖書が語る人類最初の殺人は、兄カインが弟アベルを殺すというものでした(創4章)。それゆえ、兄弟が、家族が仲良く共に住むということは決して当たり前のことではなく、神さまからの大きな恵み、深い憐れみによるのだと思うのです。使徒言行録16章には、パウロに出会ったフィリピの牢獄の看守が神さまの大きな恵みの導きの中で、イエス・キリストを信じ、家族ともども洗礼の恵みに与かって喜んだという記事が記されています。

 パウロは、イエス・キリストの救いにあずかり、イエス・キリストの教会に呼び集められた者は、すべて“神の家族”であると語っています(エフェソ2章14〜22節)。「神の家族」というのはすばらしい言葉です。イエス・キリストの教会に呼び集められている私たちは、実にイエス・キリストに結び合わされた「神の家族」なのです。それゆえ、教会においては互いに兄弟姉妹と呼び合うのです。

 1月1日は私の受洗記念日です。1970年1月1日に、南大阪ルーテル教会の元旦礼拝において洗礼の恵みに与かりました。まだ新会堂が建てられる前の暗くて小さな礼拝堂で洗礼式が行われました。礼拝が終わると、いっしょに礼拝をまもっていた人たち‥‥私にとっては、その時、初めて出会う人たちでしたが‥‥その人たちが手を差し伸べて握手し、祝福してくださいました。それは、家族を離れてひねくれたように寂しく生きていた私が、家族として迎え入れられた瞬間でした。そのような経験は、15歳で田舎から大阪に出て来て、はじめてことであり、深い感動をおぼえました。18歳の時のことです。

 この年も、多くの方々がこの教会に導かれるようにと祈り、願っています。そして、この教会においでになる方々を、かつて私が迎え入れられたように、兄弟姉妹として、神の家族として、大きな喜びをもってお迎えしたいと思います。

 この新しい年も、それぞれご家庭に、ご家族に、神さまの祝福が豊かに注がれますようにとお祈りいたします。
                              牧師:屼ノ下照光

12月のみ言葉

  ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
  ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
  権威が彼の肩にある。
  その名は、「驚くべき指導者、力ある神
  永遠の父、平和の君」と唱えられる。 (イザヤ書9章5節)



            その名は「平和の君」
                           
 神の御子が家畜小屋で生まれ、飼い葉桶の中に寝かされました。それがクリスマスです。クリスマスカードなどには、この場面が美しく描かれていますが、私は、この場面をたいへん恐ろしいものと受け取っています。神の御子が汚い飼い葉桶に寝かされています。家畜の糞尿やよだれで汚れている飼い葉桶に神の御子が寝かされています。田舎で育った私の子どもの頃、家で飼っていた牛に餌をやるのが私の仕事でした。私はその汚れた飼い葉桶に触れるのもいやでした。神の御子がそのような飼い葉桶に寝かされています。
 
 これは、どういうことでしょうか。ここには、神の御子を汚い飼い葉桶に追いやっている人間、神を拒絶し、神を排除し、神をないがしろにしている人間、もっと強い表現をするなら、神を亡きものにしようとする人間の姿がここには表わされています。まさに、この家畜の糞尿とよだれで汚れきっている飼い葉桶のような自分自身が表わされています。いや、その飼い葉桶以上に汚れきっているのが私自身であり、私たち人間なのです。
この世界の中に、そんな自分自身に気づかないで、神を亡きものにして、自らを神のようにふるまっている人間の姿があります。互いに他者を見下したり、差別しながら、いがみ合ったり、憎みあったりしています。また、内には妬みや悪意など、醜いものがいっぱい詰まっています。今、ヨーロッパ、中近東では、テロとそれに対する報復という名の殺戮の罪の連鎖が繰り返され、悲しみと嘆きで満ちています。そんな惨めで、罪の姿、そして、私自身のどうしようもない罪の姿を、この飼い葉桶は表しています。
 
 クリスマスは、神が人を愛するあまりに、ご自身が人となっておいでくださった出来事です。愛するあまりに、神は人のもっとも醜い、罪のまっただ中にご自身を横たえられたのです。汚く悪臭を放つような飼い葉桶の中に、神は大切な独り子、御子を横たえられたのです。最も醜いところ、最も暗いところに神がおいでくださって、そこにもまた、神の愛が注がれているということを示してくださいました。汚れきった私たちの世界のただ中に、汚れきった私の奥深いところにおいでくださった神の御子を、聖書は、「平和に君」と呼んでいます。神さまは、このどうしようもない罪の世界に、神さまの「平和」を投げ込んでくださいました。罪と暗黒の世界においでくださった“平和の君”を共に仰いでクリスマスをお祝いしましょう。                  
                               牧師 屼ノ下照光


11月のみ言葉

「あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださった
 か、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい」
              (マルコによる福音書 5章19節《口語訳》)



               家族とともに
   
 私たちの教会では、毎月、“祈りの課題”を掲げています。一か月間、兄弟姉妹たちが心を合わせて一つの祈りに集中するということは大切なことだと思います。
 11月の祈りは、「家族のお一人お一人の救いをおぼえて」です。主イエスさまに出会って救いの恵みをいただいた者は、なんとかこの喜びを家族にも伝えたい、家族と共に神さまを賛美し、礼拝したいと願っています。家族そろって礼拝に集い、共に礼拝をまもることができたなら、どんなにかすばらしいことだろうと思います。
 
 9月に私は、泉北ルーテル教会で執り行われた葬儀前夜式に参列しました。ある教会員のお母さまの葬儀でした。お父さまは、私が泉北教会で牧師をしていた時に召され、私がお葬式、納骨式の司式をさせていただきました。お父さまが召された後、お母さまは近くの教会に通うようになり、主イエスさまと出会って洗礼を受けられました。さらに、二人の弟さんも洗礼を受けられたそうです。主なる神さまへの賛美と祈り、復活の希望をもって、ご兄弟3人でお母さまとのお別れの時を過ごしておられました。哀しみの中にも平安に満ちた葬儀でした。
 
 マルコによる福音書5章1〜20節には、主イエスさまが、悪霊に取りつかれた男の人をいやされたという物語が記されています。この人は墓場を住まいとしており、周囲の人たちから足枷や鎖で縛られるような状態であったようです。その足枷や鎖も彼は引きちぎり、夜も昼も叫んだり、自らを傷つけたりするという、たいへん苦しい状態にあったと聖書は記しています。その彼が主イエスさまと出会い、主イエスさまは彼から悪霊から追い出し、その苦しい状況から解放されました。どうすることもできない苦しみから解き放たれたこの人は、主イエスさまのお供をしたいと願いましたが、主はそれを許されず、「自分の家に帰りなさい。そして、身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」(マルコ5章19節《新共同訳》)と言われました。家族からも共同体からも排除されたような状態のこの人は、主イエスさまによって再び、家族と共同体のもとに戻されました。それだけでなく、神の恵み、神の救いのみ業を宣べ伝える宣教者とされたのです。
 
 私たちを救いの恵みに導きいれてくださった主イエスは、私たち一人一人もそれぞれの家族のもとに遣わしておられます。11月は、1日(日)に“全聖徒主日召天者記念礼拝”が執り行われます。また、8日(日)には、“子ども祝福式家族礼拝”とオープン・チャーチ・バーベキューが予定されています。また、クリスマスも近づいてきます。この機会に、愛するご家族の方々、ご両親やおつれあいさん、子どもさんやお孫さんたちを教会にお誘いください。家族と共に、主なる神さまを賛美しましょう。               
                          (牧師:屼ノ下照光)

10月の御言葉

     いかに幸いなことか
     ヤコブの神を助けと頼み
     主なるその神を待ち望む人
     天地を造り
     海とその中にあるすべてのものを造られた神を。

     とこしえにまことを守られる主は
     虐げられている人のために裁きをなし
     飢えている人にパンをお与えになる。
     主は捕われ人を解き放ち
     主は見えない人の目を開き
     主はうずくまっている人を起こされる。
     主は従う人を愛し
     主は寄留の民を守り
     みなしごとやもめを励まされる。
     しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる。

     主はとこしえに王
     シオンよ、あなたの神は代々に王。 ハレルヤ。    
                  (詩編146:5〜10)


 世界食料デー礼拝

 10月18日(日)は、“世界食料デー礼拝”です。今年も、日本国際飢餓対策機構の常務理事である清家弘久さんにおいでいただきます。清家さんから世界の飢餓問題と日本国際飢餓対策機構の働きについてお話ししていただきます。どうぞ、この礼拝にご出席ください。当日は、礼拝後に清家弘久さんを囲んで昼食をいただきます。カレーライスを用意いたします。
 この世界と私たち一人一人の大切な命を造り、支えてくださる主なる神さまは、虐げられている人、飢えている人に愛の目を注いでくださり、弱い立場にある寄留者、みなしご、やもめを守ってくださると聖書は告げています。そして、それが神さまの御心であると聖書は語っています。今、私たちのこの世界は、神さまの御心にかなっているのでしょうか? 食べ物に飽き足りている人たちがいる一方で、飢餓に苦しむ子どもたちがたくさんいます。また、紛争、テロなどによって難民となって苦しんでいる人たちも多くいます。神さまの前に、悔い改めを迫られているように思います。平和を祈り求める者でありたいと思います。
                               牧師:屼ノ下照光

9月のみ言葉

わたしに聞け、ヤコブの家よ
イスラエルの残りの者よ、共に。
あなたたちは生まれた時から負われてきた。
同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで
白髪になるまで、背負って行こう。
わたしはあなたたちを造った。
わたしが担い、背負い、救い出す。    
           (イザヤ書46章3〜4節)



               白髪になるまで

 9月13日(日)は“敬老のまじわり礼拝”です。“高齢化社会”ということが言われるようになって久しくなります。教会内でも確かに高齢化が進んでいます。“高齢化問題”と、高齢者が多いことが何か問題でもあるかのようにとらえられることもありますが、社会や教会に高齢者が多くおられるということは、神さまの大きな祝福です。
 旧約聖書の箴言には、次のようなみ言葉があります(口語訳)。
   
 しらがは栄えの冠である、
 正しく生きることによってそれが得られる。
            (箴言16章31節)

 若い人の栄えはその力、
 老人の美しさはそのしらがである。
            (箴言20章29節)


 私が最初に髪の毛に白いものを見つけた時は、たいへんショックでした。しかし、60代半ばになって、鏡に映る自分のごま塩頭を見ていると、「もう少し、白くてもいいのに」などと思っています。ちなみに、私の兄も弟もその頭は真っ白です。私たちの教会にも“栄えの冠”を戴いておられる美しい方々が多くおられることは、たいへん喜ばしく、感謝なことです。
8月8日に義母が召されました。93歳でした。9日に前夜式、10日に葬儀告別式が橿原ルーテル教会で執り行われました。義母が教会でたいへん大切にされ、愛されていたということをあらためて知らされる機会でもありました。前夜式の折に教会員の女性が追悼の言葉を語ってくださいました。その折に、イザヤ書46章3〜4節のみ言葉を語ってくださいました。葬儀告別式でも、江利口功先生が、同じみ言葉からメッセージを語ってくださいました。
「わたしはあなたたちの老いる日まで白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」。
 お別れのとき、義母の安らかな顔を見たとき、確かに造り主、救い主なる神さまに担われ、背負われ、救いをいただいた生涯であったと思いました。「わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」と神さまは、私たちにも語りかけてくださっています。
                              (牧師:屼ノ下照光)

7月のみ言葉

【7月のみことば】 
 主は多くの民の争いをさばき はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。
 彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。
 国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。 
                         (ミカ書4章3節)


               「剣を鋤に、槍を鎌に」 
 8月第1日曜日は“平和の主日礼拝”です。今年は、8月2日(日)に執り行います。この礼拝では毎年、この預言者ミカの言葉を必ず朗読しています。ニューヨークの国連本部の入り口にも刻まれているという、この聖書のみ言葉を聞くたびに、私は深い感動をおぼえます。ある年のテレビのニュースで広島の原爆記念日のようすが報じられていました。その中で、広島にある“平和記念聖堂”というカトリック教会が紹介されていました。その教会にある“鐘”はドイツから贈られたものであり、その鐘は武器を打ち直して作られたものであると紹介されていました。その鐘を造った人たちのうちには、このミカの言葉があったものと思われます。

 預言者が語るこの世界平和は、単なる理想なのでしょうか。ただの夢物語なのでしょうか。ここには気休めが語られているのでしょうか。そうではありません。彼はここで、神に遣わされた預言者として、神の約束の言葉を告げているのです。私たちは、預言者が告げたこの神の言葉を真剣に受け止めなければなりません。平和を願っておられる神の思い、その御心は、その独り子主イエス・キリストをこの世界に与えてくださったという恵みの中に表されています。
 
 主イエスさまは、「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5章9節)と教えてくださり、ご自身“和解の供物”として十字架の上で血を流し、神と私たちのとの間の和解、平和を確立してくださいました。主イエスさまは、「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26章52節)と語られました。主イエスさまは、預言者が語った“神による平和”、「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」平和、「国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」という平和を目指しておられるのです。私たちキリスト者は、主イエスさまの十字架によって贖われ、神さまのものとされた者として、この平和をめざして生きる者です。

 70年前の敗戦後、私たちの国、日本は、憲法第9条を手に入れ、まさに“剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする”ことを誓い、平和への道を歩みはじめました。しかし、私たちの国は今、政府が推し進めようとしている“集団的自衛権行使”をめぐる問題に見られるように、平和への道と逆行しているように思います。

 そのような私たちの社会に向かって、「主の山に登り、ヤコブの家に行こう、主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう。主の光の中を歩もう」(ミカ4章2節)と預言者と共に語り続けなければなりません。また、神は、人の命を奪い、傷つける武器を必要としておられないということを、語り続けていかなければならないと思っています。

 それと同時に。私たちの、この私の心の内にある“剣”、“槍”を神によって打ち直していただくことを目ざしていかなければなりません。それには、預言者が語るように、絶えざる“悔い改め”と“神の言葉”を聞くことが必要なのです。まず、私たち自身、常に「神の家に行き」、主の道を示していただき、主の道を歩むことが必要なのです。

                                牧師 屼ノ下 照光


6月のみ言葉

主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、いかに尊いことでしょう。
あなたの栄光は天にあり、みどりごと、ちのみごとの口によって、
ほめたたえられています。             (詩編 8編1〜2節)


         「子どもたちの口によってほめたたえられる方」
                                牧師 屼ノ下照光
 6月の第二日曜日は、教会では、“子どもの日、花の日”と定められています。最近では行われなくなりましたが、この日に、この教会でもお花をもって、消防署などをお訪ねしました。
 
 先日、テレビのニュースで、保育園の騒音の問題が取り上げられていました。保育園から聞こえてくる子どもたちの声を、騒音であるとして保育園周辺の住民が訴えるということが各地で問題となっているようです。そこには園児の送迎のための駐車場の問題などもあるということです。それについては、議論の余地もあるかと思いますが、子どもたちの声を“騒音”であるとして訴えるなどは、あまりにも寂しい感じがします。ある保育園では、非常に高い防音壁を作り、その壁が紹介されていました。目の前の高い壁を前にして、空しか見上げられない子どもたちが、どのように育つのか、心配になりました。また、ある地域では、公園から子どもたちが追い出されるということも起こっていると報道されていました。いつも保育園や幼稚園、教会学校で子どもたちといっしょに遊んでいる私には、信じられないような、そしてたいへん悲しい気持ちになりました。これでは、少子化が進むのは当然であると思わざるをえません。

 詩編8編では、みどりご、ちのみごの口によってこそ、神さまのみ名はほめたたえられると歌っています。イエスさまのところにやってきた子どもたちを弟子たちが叱ってとめた時、イエスさまは弟子たちに対して憤りをあらわにし、「子供たちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」(マルコ10章14節)と語られました。教会から子どもたちの声が聞こえなくなったら、どんなに寂しいことでしょうか。

 教会では、7月26日(日)、27日(月)に、教会学校キャンプを計画しています。今から予定に入れてくださって、ご協力いただきますよう、よろしくお願いいたします。
私の好きな八木重吉の詩を紹介します。

さて あかんぼは なぜに あん あんあん あん なくんだろう
ほんとに うるせいよ あん あんあん あん 
あん あんあん あん
うるさかないよ うるさかないよ よんでるんだよ
かみさまをよんでるんだよ
みんなもよびな あんなにしつこくよびな


5月のみ言葉

悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリスの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 
                       (使徒言行録2章38節)

    
           「ペンテコステ」
 
 今年は5月24日(日)が“聖霊降臨祭・ペンテコステ”です。この日は、クリスマス、イースターとともに教会の大切な祝祭日です。クリスマス、イースターと同じように、ペンテコステにも、「おめでとうございます」と互いに挨拶を交わしたいものです。

 主イエスさまが復活されて50日目(ペンテコステというのは、ギリシア語の50日を意味する言葉)、主イエスさまが約束しておられた“聖霊”が弟子たちのところにおいでくださり、ペトロをはじめとする弟子たちが、復活された主イエスを大胆に宣べ伝え始めました。教会では、この日を、教会が誕生した日として大切にしてきました。そして、何よりも、今、私たちが教会に導かれ、イエス・キリストによる罪の赦しによる救いと、それにともなう生ける希望、喜びが与えられているということを喜ぶ日なのです。この日は、今も聖霊なる神さまが教会のうちに働き、導いていてくださっていること、私たち一人一人にみ言葉を語りかけ、私たちを生かしてくださっていることを感謝する日なのです。そして、聖霊なる神さまは、これからも私たちと私たちの教会を、平和の福音を宣べ伝えるために豊かに用いようとしてくださっているのです。

 聖霊が降った日、使徒ペトロの説教に感動した人々が、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と尋ねました。その問いかけにペトロはこう語りました。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリスの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(使徒言行録2章38節)。わたしたちもまた、この約束の聖霊を受けたのです。それゆえ、こうして導かれ、罪の赦しをいただき、イエス・キリストの教会につながる者とされ、生かされ、導かれてきました。私たちの信仰の歩みは、この聖霊によって導かれてきたのです。私たちそれぞれの信仰の歩みは、それがどのようなものであったとしても、確かに風のように自由に私たちの中を吹き抜けてくださる聖霊によって支えられてきたのです。私自身の信仰の歩みをかえりみるとき、そのことを強く感じます。何ごとにもだらしなく、根気がなく、意志の弱い私が、まがりなりにも牧師として働いてくることができたのは、まさに聖霊なる神さまの御導きによったのです。この聖霊について、あるの本につぎのように記されていました。
 
「聖霊は、暖かい太陽の光のように、わたしたちを天の父の限りない愛で満たし、わたしたちが神の愛する子どもであることを知らせてくれる。また、風が波の上のヨットを移動させていくように、わたしたちが福音に従って生き、イエスの跡をたどるように、わたしたちを動かす。聖霊は、わたしたちから恐れの感情をなくし、言葉や行動を通してキリストの福音を伝えていく勇気を与える」。
 
 今、私たちに語りかけ、働きかけてくださる聖霊なる神さまは、この混乱し、分裂し、憎しみと争いに満ちている世界に対しても、語りかけ、働きかけてくださいます。父であり、御子イエス・キリストであり、聖霊である三位一体の神さまは、この混乱した世界をも、その大きな愛で包み込んでくださっていると、私は信じています。      
                            (牧師 屼ノ下照光)



4月のみ言葉

【4月のみことば】 
イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。(ヨハネ20章15〜16節)


      「名前を呼んでくださる方」
 
 救い主のご復活をお喜び申し上げます。
ある神学者が、「私たちはキリストの復活を信じているのではありません。復活し、生きておられるイエスを信じているのです」と語っています。私たちは、復活された主イエス・キリストが今も生きて私たちに語りかけ、この私の大切な人生を共に歩んでくださっているということに、大きな慰めと平安をおぼえています。

 主がご復活された日の朝、空になった墓の前で戸惑い、途方に暮れて泣いていたマグダラのマリアに、主イエスさまは後ろから近づかれました。涙で彼女にはそれがだれであるかが分かりませんでした。しかし、主イエスさまが、「マリア」と呼びかけられたとき、彼女は、それが懐かしい主であると分かりました。彼女の心は大きな喜びで満たされました。

 主イエスさまご自身が、マリアに声をかけ、名前を呼んでくださいました。名前を呼ぶということは、人と人との関わりにおいてもたいへん大切なことです。私たちは名前を呼ばれることによって、深い親しみや愛を感じることがあります。イザヤ書43章1節で、主なる神さまは、「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな。わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」と語りかけてくださっています。復活の主イエスさまは、今日も、私たちひとりひとりの名前を呼んで、語りかけてくださっています。その呼びかけに対して、「はい、イエスさま」と応える者でありたいと思います。

 マリアは、主イエスさまから名前を呼ばれ、さらに、弟子たちのところへのメッセージを託されました。過去を求めて墓に向かったマリアでしたが、復活の主イエスさまは彼女の目を将来に向けさせてくださいました。彼女は大きな喜びのうちに、弟子たちのところに行って、「わたしは主を見ました」と、喜びのメッセージを伝えました。

 私の罪や挫折は、私の目を過去に向けさせ、私を過去に閉じ込めてしまいます。しかし、復活の主イエスさまは、私の目を将来へと向けさせてくださいます。私の罪は、十字架の主イエス・キリストのあがないによって赦されています。この赦しの中で私は、日々新たに歩み出すことができます。今日というこの日、私は復活の主イエスさまのゆえに、マグダラのマリアと共に、罪赦され、新たにされ、希望と使命が与えられ、喜びの内に生きることが許されているのです。復活の主イエスさまに感謝します。
                            (牧師 屼ノ下照光)

3月のみ言葉♪

【3月のみことば】 
「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」。
                            (競灰螢鵐13章13節)


「苦難と慰め」
 ある牧師が、『コリントの信徒への手紙二』の主題は、“苦難と慰め”であると語っています。この手紙のいたるところに“苦難”という言葉が出てきます。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただく慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです」(1章3〜5節)。私たちの人生の中に苦難が襲ってきます。苦難を経験するということは避けられないことです。苦難に襲われるとき、私たちは、その苦しみが自分だけのものであると感じて、大きな不安の中に落ち込んでしまうことがあります。そして、信仰を与えられていても、「はたして神などおられるのだろうか」との疑いさえ抱くことがあるのです。
 

 パウロのこの手紙を読んでみますと、パウロ自身もコリントの教会も大きな苦難を経験していたことがわかります。その中でパウロは、「あらゆる苦難」のときに確かに慰めを与えてくださる方がある。それは、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父」であると語っています(1章3〜7節)。彼のその確信はこの手紙全体を貫いています。
 

 ドイツに『希望の神学』という本を書いたモルトマンという神学者がいます。彼は少年時代、聖書を手にしたこともなく、信仰とは関わりのない中で育ちました。第二次大戦で、ドイツのハンブルグがイギリス空軍に爆撃されたとき、彼は高校生で招集され、クラスメイトたちと共に高射砲陣地に行かされました。そこで彼が見たものは多くのクラスメイトが空爆でバラバラになって死んでいく姿でした。九死に一生を得た彼は、その苦難の中で、「神はいったいどこにいるのか」という問いを発し続けました。後に彼は捕虜となり、収容所の牧師から聖書をもらい、「神はどこにいるのか」という問いに対する答えを、十字架のイエス・キリストに見出しました。苦しみの真只中にこそ慰めと力があり、十字架の真只中にこそ救いがある、ということを彼は知ったのでした。主イエスの十字架にこそ“救いと慰め”がある、それが彼の『希望の神学』の出発点であったといわれています。
 

 神の独り子イエス・キリストは、十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と叫ばれたほどの苦しみをお受けになりました。ルターは、「ここでは神と神が戦っておられる」と語っています。ここに三位一体の神の神秘が隠されています。御子イエスの苦しみは、父である神ご自身のお苦しみでした。そのことを聖霊なる神は、神の言葉を通して、私たちに語りかけ、慰めてくださるのです。  
                              (牧師 屼ノ下照光)


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