11月の御言葉

「死は勝利にのみ込まれた。
 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」
 死のとげは罪であり、罪の力は律法である。私たちの主イエス・キリストによって
 わたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。     
                  (コリントの信徒への手紙一15章54〜56節)



               死は勝利にのみ込まれた
 毎年、11月の第一日曜日は“全聖徒主日召天者記念礼拝”として、特に、すでに神さまのみもとに召された愛する方々をおぼえて礼拝をまもっています。愛する人たちへの親しみの思いは、たとえ死によって分けられたとしても、決してなくなってしまうものではありません。かえって、死によって分けられることにより、強くなるのです。その人たちに対する慕わしさは、時とともにより強くなっていきます。
 私も、召された両親や妹のことをいつも考えます。私の父は、客観的に見て、決して優れた、りっぱな人ではありませんでした。子供として、一緒にいてずいぶん恥ずかしい思いもしたこともありました。しかし、いつも思い出すことは、彼が私に示してくれた深い愛情のこもったさまざまな場面だけです。私たちの愛する人たち、そして、すべての人たちの生命は神さまのものであり、すべての人の人生は神さまの大きな恵みのみ手の中にあります。召天者記念礼拝は、そのことを確認する日でもあるのです。そして、召天者記念の礼拝は、すでにみもとに召された人たちが、私たちに与え、示してくれた美しいものを思い起こし、そのような人たちと深い関わりを与えてくださった神さまに感謝し、神さまをほめたたえる時なのです。

 12年前にノルウェーを訪問した折、印象的なことの一つは、村の小さな教会の周囲がきれいな墓地となっていたということです。芝生がしきつめてあるところに墓石がきれいにならんでいました。写真では見たことがありましたが、実際に見て、愛する者に対する思いというものが伝わってくるように感じました。それは、ほんとうに美しく、そこには復活を信じる信仰と、再び愛する者とあいまみえるという希望のシンボルのようにも思えました。また、礼拝堂の床に、埋葬され、床に鉄のプレートがはめこまれているお墓も見ました。それは礼拝堂の通路にありましたが、一瞬、踏んでいいものかどうかと躊躇しました。いずれにしても、別離のあともなお、近くにいて思い起こしたい、思い出を大切にしたいという召された方々への深い思いがそこにあらわれているように感じました。

 コリントの信徒への手紙一15章では、パウロが主イエス・キリストの復活によって、私たちに大きな希望が与えられているということを語っています。キリストの復活による勝利宣言がここで語られています。キリストは私たちの罪をすべて背負って十字架で死んでくださり、それだけでなく、復活して私たちに永遠の生命の約束をしてくださいました。それだからこそ、私たちは今という時を、希望をもって生きることができるのであると語っています。
 イエス・キリストは私たちすべての者のために、人類すべての者のために、私たちの死の暗黒を背負って十字架へと向かい、復活によって私たちの死に対して、勝利してくださいました。“死”は、キリストの勝利によってのみ込まれてしまいました。キリストは、私たちのうちにある恐れや不安に対して確かに勝利してくださったのです。私たちはこの世の歩のみ中で、さまざまな不安を抱えて生きています。そこで、さまざまな労苦を経験します。しかし、その労苦は、決して無駄ではないと、パウロはこの締めくくりで語っています(15章58節)。
 “死と罪”、“暗黒と虚無”、“不安と恐れ”がこの世を、そして私たちを支配しているような思いにとらわれることがあります。しかし、それらは、私たちの主イエス・キリストによって、すべてのみ込まれてしまっているのです。        
                              (牧師 屼ノ下照光)


10月の御言葉

涙と共に種蒔く人は
喜びの歌と共に刈りいれる。
種を背負い、泣きながら出て行った人は
束ねた歩を背負い、喜びの歌を歌いながら帰ってくる。
                 (詩編 126章 5〜6節)

喜びの収穫

 収穫の秋ですね。もう、刈り入れも終わったころでしょうか。岐阜県高山市郊外の農村で生まれ育った私は、黄金色に輝く刈り入れ前の田んぼを見るのが大好きです。また、刈り入れ後の田んぼの匂いも好きです。子どもの頃、ひんやりとした朝霧の中を、親戚、家族そろって、山の田んぼに刈り入れに出かけた日のことを思い出します。朝早く母親たちは、かまどで炊いたご飯を御櫃に入れ、大きな鍋で煮ものを作り、それを荷車にのせて田んぼに出かけました。今のようにコンバインなどない時でしたから、大人たちは皆、腰をかがめて稲を刈り、束ねていきました。私たち子どもたちは、その稲束を背負って、荷車の置いてあるところまで運びました。お昼は草の上に輪になって、家から持ってきたごはんを食べました。子どもたちにとって、それはピクニックのような楽しさでした。遊園地や行楽地に行くという楽しみはありませんでしたが、家族そろっての刈り入れは、大きな喜びの時でした。そして、刈り入れが終わると、夕焼け空を背に、荷車にいっぱい稲束を積んで帰りました。その風景を思い出すと、なんとも懐かしい気持ちになります。先日、車を走らせている時、田んぼに稲束が稲架(ハサ)にかけられているのを見かけました。最近ではほとんど見られなくなったその光景に、なんだか胸の奥が熱くなるのを感じました。
 
 詩編126編を読むとき、私はいつも子どもの頃のその懐かしい風景を思い出すのです。この詩編は、50年以上のバビロン捕囚の苦しみから解放された人々の喜びが歌われています。苦しみの後の大きな喜びが、刈り入れの喜びとして歌われています。苦しみの中で、泣きながら、涙と共に種を蒔いた者たちに、主なる神さまは、確かに喜びの収穫を与えてくださると歌われています。そして、ここで語られている「種をまく」ということが、み言葉の種をまくとうい伝道の働きととらえられて、教会では、福音宣教の労苦と、確かな収穫の喜びを歌ったものとして親しまれてきました。今日、福音宣教の働きは決して簡単なことではありません。しかし、神さまは、ご自身の大きな恵み、私たち人間に対する愛によって、確かに、大きな喜びの収穫を約束してくださっているのです。
                            (牧師 屼ノ下照光)
  

今月の御言葉

【9月のみことば】
「しかし、あなたは、健全な教えに適うことを語りなさい。年老いた男には、
 節制し、品位を保ち、分別があり、信仰と愛と忍耐の点で健全であるように
 勧めなさい」                (テトス 2章 1〜2節)


敬老の交わり礼拝

私たちの教会では、毎年9月に、“敬老の交わり礼拝”を執り行ってきました。今年は9月7日(日)に執り行います。多くのご高齢の方々と共に、この日を喜び、神さまへの感謝と賛美のときにしたいと思います。以前は、65歳が対象者でしたが、その後70歳になり、今は75歳になっています。教会によっては、80歳というところもあるようです。まさに“高齢化時代”を象徴していると思います。

私も63歳となり、高齢者の仲間入りしつつあります。さまざまな場面や肉体の変化によっで、自分が“老い”に向かっていることを実感しています。“老い”への準備が必要であると感じています。パウロは、若い牧師テトスに、「あなたは、健全な教えに適うことを語りなさい。年老いた男には、節制し、品位を保ち、分別があり、信仰と愛と忍耐の点で健全であるように勧めなさい」と語っています。年を重ねれば、自然と人格が完成に向かい、落ち着いて、円満になるというわけではありません。かえって、偏屈になったり、頑固になったり、人の言葉に耳を傾けることができなくなるということもあるのです。先日も83歳のストーカーというびっくりするようなニュースが報道されていました。私も、どのような老人になるのだろうかと、今から心配しています。だからこそ、み言葉によって、節制、分別が備わり、信仰と愛と忍耐が増すようにと勧められなければならないと、自戒をこめて、自らに言い聞かせています。また、主なる神さまの深い憐みと御導きを祈り求めています。

鍋谷堯爾先生の『老いること、死ぬこと』という本の中に、こんな話が紹介されていました。スイスの精神科医のポール・トゥルニエが、「いつまでも若くしていることのできる秘訣を聞かせてほしい」と頼まれた時、彼は、自分の人生には何度も転換期があったが、そのたびに新しく生きなおし、その再出発が若さをあたえてくれたのだ、と言っているそうです。そして、鍋谷師は、「歯が悪くなっても、入れ歯をしたら新しい人生です。ガンになっても、手術がうまくいったら、それからは新しいいのちです。前の続きで生きるのではありません。死ぬことも、クリスチャンにとっては終わりでなく、新しい出発です。こうして最後まで私たちは若さを維持できるのです。若くあるために転換期をもちましょう」と書いておられます。そして、さらに、「心が愛に向かうことが真の新しい出発だと、トゥルニエは言っています。この点についてジミー・カーターも、シンプルなことの追求、すなわち、自分の幸せ、平和、喜び、満足、そして他の人の幸せと満足を喜ぶ愛の追求こそ、年齢に関係なく、人を真に生かすものだと言っています」と書いておられます。
「私のうちに、信仰と愛と忍耐を健全に増し加えてください」というのが、私の祈りです。
                              (牧師 屼ノ下照光)

8月の御言葉

「剣を鋤に、槍を鎌に」

主は多くの民の争いをさばき
はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げずもはや戦うことを学ばない。  
                (ミカ書4章3節)

桔梗が丘ルーテル教会では、毎年8月に、“平和の主日礼拝”をまもってきました。今年も、8月3日(日)に、出席者の皆さんと共に、このたいせつな世界の平和のためにお祈りしました。“平和の主日礼拝”では毎年、先にあげた預言者ミカの言葉を必ず朗読してきました。ニューヨークの国連本部の入り口にも刻まれているという、この聖書のみ言葉を聞くたびに、私はいいしれない感動をおぼえるのです。

ある年のテレビのニュースで広島の原爆記念日のようすが報じられていました。その中で、広島にある“平和記念聖堂”というカトリック教会が紹介されていました。その教会にある“鐘”はドイツから贈られたものであり、その鐘は武器を打ち直して作られたものであると紹介されていました。その鐘を造った人たちのうちには、このミカの言葉があったものと思われます。

預言者が語るこの世界平和は、単なる理想なのでしょうか。ただの夢物語なのでしょうか。ここには気休めが語られているのでしょうか。そうではありません。彼はここで、神に遣わされた預言者として、神の約束の言葉を告げているのです。私たちは、預言者が告げたこの神の言葉を真剣に受け止めなければなりません。平和を願っておられる神の思い、その御心は、その独り子主イエス・キリストをこの世界に与えてくださったという恵みの中に表されています。

 主イエスさまは、「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5章9節)と教えてくださり、ご自身“和解の供物”として十字架の上で血を流し、神と私たちとの間の和解、平和を確立してくださいました。主イエスさまは、「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26章52節)と語られました。主イエスさまは、預言者が語った“神による平和”、「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」平和、「国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」という平和を目指しておられるのです。私たちキリスト者は、主イエスさまの十字架によって買い戻され、神さまのものとされた者として、平和をめざして生きる者です。

敗戦後、私たちの国、日本は、憲法第9条を手に入れ、まさに“剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする”ことを誓い、平和への道を歩みはじめました。しかし、今日、私たちの国は、政府が推し進めようとしている“集団的自衛権”の問題に見られるように、ますます軍事的な緊張が高まっているのが現実です。

そのような私たちの社会に向かって、「主の山に登り、ヤコブの家に行こう、主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう。主の光の中を歩もう」(ミカ4章2節)と預言者と共に語り続けなければなりません。また、神は、人の命を奪い、傷つける武器を必要としておられないということを、語り続けていかなければなりません。私自身は、戦争と人を殺傷する武器の放棄を謳った憲法第9条は、何としても護らなければならないと考えています。

それと同時に。私たちの、この私の心の内にある“剣”、“槍”を神によって打ち直していただくことを目ざしていかなければなりません。それには、預言者が語るように、絶えざる“悔い改め”と“神の言葉”を聞くことが必要なのです。まず、私たち自身、常に「神の家に行き」、主の道を示していただき、主の道を歩むことが必要なのです。

7月のみことば

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現われ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。  (フィリピ 2章 6〜11節)

イエス・キリストは主である

「イエス・キリストこそ、私の主である」というのは、私たちキリスト者の信仰の基本
であり、私自身を支える土台であり、私の人生のすべてを支える土台です。
 

『親分はイエス様』という映画がありました。ヤクザだった人たちが、キリストに
捕らえられ、キリスト者となり伝道者として歩む物語ですが、実話です。
親分のためには人を傷つけたり、殺したり、親分に代わって罪をかぶったりしていた
彼らが、ほんとうに彼らを愛し、赦し、大切にしてくださる主イエスに出会ったとき、
命をかけることができるほんとうの親分、主イエスに出会ったのでした。
彼らは、「イエス・キリストは主である」という恵みの中に、ほんとうの安らぎと
救いを見いだしたのでした。
 

 イエス・キリストは、神の独り子、神ご自身であられますが、神であることに
固執しようとはされず、人間の姿をとって最も惨めな十字架の死に向かわれました。
それは私たちの救いのためでした。罪と死に捕らえられている私たちを神のもとに
取り戻すためでした。私たちのために徹底的に仕える者、奴隷となって十字架へと
向かわれた方、この方こそ、私たちの“主”であるとパウロは語っているのです。
徹底的にご自身を低くして、僕となって、十字架の上で惨めで情けない姿をさらされた、
これが私たちの主であります。マルコ8章には主イエスさまが弟子たちに、
「あなたがたは、わたしを何者だと言うのか」と問いかけておられますが、
この問いに対して、私たちは、「僕の姿をとって十字架に向かわれたイエスさまこそ、
私の主、救い主です」と答えるのです。

 私たちは、十字架の主イエスを「この方こそ、わたしの主である」と告白する者です。
そして、この方の前にひざまずく者です。今のこの時代において、十字架にあらわされた
福音を宣べ伝えるということは、決して容易なことではありません。
むしろ非常に困難なことです。しかし、神さまは44年前にこの地に教会を建て、
一人一人の兄弟姉妹たちを呼び集めてくださいました。それは、恵みによって呼び集め
られた者が、「イエス・キリストは主である」と告白して、神をたたえるためでした。
これまでの教会の歩みと同じように、このところにおいて、教会に呼び集められた
私たちが、イエス・キリストを主と仰ぎ、十字架の主イエスさまの前にひざまずいて
礼拝をまもり続けること、それこそが、最も大切なことであり、それこそが最も大きな
証しとなるのです。                  
                            (牧師 屼ノ下照光)

6月のみことば

『乾いた心を潤す神の言葉』
                           牧師 屼ノ下照光

雨も雪も、ひとたび天から降れば  むなしく天に戻ることはない。
それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ
種蒔く人には種を与え  食べる人には糧を与える
そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も
むなしくは、わたしのもとに戻らない。
それはわたしの望むことを成し遂げ  わたしが与えた使命を必ず果たす。


         
私は、美杉ルーテル教会の牧師を兼任しています。
初夏から梅雨にかけて、日曜日の午後、私は美杉ルーテル教会へ車を走らせるのが
大好きです。山々は新緑に輝き、その緑の中に色とりどりの花を見ることができます。
きれいに植えられた水田の稲は、青々と風にゆれています。
また、名張川の清流にはアユをねらう釣り人たちの姿も見ることができます。
この時期、雨もまた風情があり、雨の中をゆっくりと車を走らせるのも
たいへん趣のあるものです。

そんなとき、私が思い出すみ言葉は、詩編121編の
目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。
 わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから

であり、イザヤ書55章のみ言葉です。

雨も雪も、神さまが自然を通して注いでくださる大きな恵みです。
今年の冬は大雪で、各地で大きな被害をもたらした。
また、夏の大雨や洪水も恐ろしいものです。
しかし、それらが大きな恵みであることは確かです。
青々とした山々を映している水田にはられた水は、
秋の豊作を約束しているかのようです。
雨も雪も、大地を潤し、豊かな実りをもたらします。
やがて天にもどる雨も、大きな働きをしているのです。

それと同じように、神さまのみ言葉も、神さまの口から語られる時、
むなしくは、神さまのもとに戻ることはないと、神さまは語っておられます。
ひとたび、神さまのみ言葉が語りかけられると、そのみ言葉は、
人の心にしみわたって潤し、人と人との間を潤し、人を生き生きとさせるのです。
私たちが、導かれて信仰をいただいたとき、洗礼の恵みに与った時、
そのことを身をもって経験したのではないでしょうか。
そして、毎週の礼拝の時にそのことを、確かに経験しているのではないでしょうか。

私は、特に厳しい中で落ち込んだり、心がくずおれていたとき、
教会において兄弟姉妹と共に礼拝し、主を讃美してみ言葉を聞く中で、癒され、
新たに立ち上がったという経験を何度もしてきました。
イエス・キリストの教会は、神さまのみ言葉を委ねられているところです。
決してむなしくもどることのない神さまのみ言葉をいただき、
また、それを携えて出て行く場所が、教会であり、教会の礼拝なのです。

神さまのみ言葉を感謝いたします。

あけましておめでとうございます

「 新しく創造された者 」                     山岡由紀子牧師

 昨年を振り返ると、本当に悲しくつらいことの多い年でしたね。年が変わっただけで山積している日本や世界の問題は、解決されるわけではありません。私たち一人一人も、年が新しくなったからと言って、私たち自身は新しくなるわけではなく、反対に年を重ねて古くなって行きます。

 しかし、私たちは、皆新しくなりたい、という願望を持っています。新年にあたっては、箸や歯ブラシや、ある人は、下着までも新しいものに変える人もいます。自分は新しくなれないけれど、新しいものを手にする事によって、気持ちを新たにするということでしょうか。

 しかし、パウロは、私たちの年齢の老若とは関係なく、人間は誰でもキリストに結ばれる人は、新しく神様によって創造された者である、と言います。これこそ、福音でなくて、何でしょうか。自分よりずっとお年を召されたクリスチャンが、生き生きと教会生活をされている姿を見ると、自分もその人のようになりたいと思います。また、お身体もおもわしくなく、病弱であっても、前向きに目的を持って感謝し、期待し、喜びを持って生活しておられるクリスチャンに出会うと、反対に励まされるのです。大切な事は、その人がキリストに結ばれているかどうか、この一点にかかっているのです。

新年を迎える時も、ほんとうの意味で、古い自分をイエス様と共に十字架につけてしまって、新しい年に入って行くことができます。そして、イエス様が死からよみがえられたように、私たちもイエス様と結ばれ、イエス様の復活に共に与かることができるのです。悲しみも、疑いも、重荷も、罪も全てイエス様が取り去って、ご自分の肩の上に置いて引き受けて下さったのですから、私たちは、いつまでも古い傷を引きずる必要はないのです。

 2012年に入ったばかりで、これから全て真っ白なキャンパスに思い思いの絵を描いて行きます。ひとりでは、その絵筆はとんでもないところに走り出すかもしれません。イエス様にしっかりと絵筆を握っていただいて、神様が私たち一人一人を通して描こうとされている絵を新しいキャンパスの上に描いて行く一年でありたいと思います。お一人お一人の上に神様の豊かな祝福がありますように。
2012年元旦礼拝
2012年元旦礼拝にて

喜びに変わる

牧師 山岡由紀子 
9月に入って教会では、先ず敬老の交わり家族礼拝があります。その為に教会のオリーブの会の人たちは、招待状を出し、又手渡し、当日の食事やテーブルの準備の打ち合わせをしてきました。当日の交わり会で今年は大正琴と共に、歌って下さるグループの方々は8月中何度も教会で歌の練習を重ねて来られました。一年に一度高齢の方々を特に覚え、礼拝と交わりを持つことが出来ますのは、本当に嬉しい事です。
長い人生を生きてこられたからこそ、人々に祝っていただけるわけですが、人はそれぞれの人生で、楽しいことばかりではありません。子どもも、若い人も、年寄りも苦しい事、つらいこと、悲しいことを避けて通ることはできません。 イエス様は「 あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。 」とおっしゃいます。これを知っているかどうかで、私たちの人生は大きく違ってきます。イエス様は、十字架に架かられ、弟子たちは自分たちだけで取り残され、生きる希望を失ってしまいました。どん底に突き落とされたような大きな悲しみでした。しかし、イエス様は、死の後で死から復活され、弟子たちの悲しみは喜びに変わりました。
十字架の死は、勝利を意味していました。悪魔は、イエス様が十字架で全人類の罪を背負って神様の罰をご自分の身をもって償い、贖う事を何とか阻止しようとしましたが失敗し、イエス様は父なる神様の計画を成し遂げられたのです。だからこそ、イエス様の苦しみ、弟子たちの悲しみは、イエス様の復活によって喜びに変えられたのです。イエス様の復活は、死への勝利を意味するのです。
私たちが、イエス様を信じ、イエス様につながって生きる時、イエス様が十字架を通って復活されたように、弟子たちがどん底の悲しみから喜びを味わったように、私たちのどんな悲しみも喜びに変わるのです。そう約束されているのです。
罪赦され、神の子とされ、永遠の命を頂いてある今を感謝!
ハレルヤ!

世にあって星のように輝く

 イエス様は、十字架への道を歩み始められる最後の時期に弟子たちに別れの説教
をされ、祈られました。その祈りの中で、父なる神様にイエス様は「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。」とおっしゃいました。私たちはこの世から選び出され、神様の子どもとされるという大きな特権と恵みに与っているのです。しかし、私たちは、現実にはクリスチャンになった後もこの世から離れて生活しているわけではありません。どっぷりとこの世の中に生きています。
 価値観、判断基準、物の見方は、この世からの影響を毎日受け続けています。そして、古い罪は、いつもいつも私たちの中で死なないで活発に働いています。もしも、私たちが、この世からの攻撃に無防備に生きていたら、すぐにキリストのものとされた恵みから離れてしまいます。
 パウロは、エフェソ書の中でこの世の霊との戦いについて、「立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」と勧めています。どのような時も、私たちは、この世の霊に導かれるのではなく、神様の霊に導かれて、祈り、聖書のみ言葉から力と知恵を頂き、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容な心を神様からいただきながら、歩んでいきたいものです。
 この世にあって星のようにイエス様の光を反射しながら、輝きたいと願います。



毎日がクリスマス

クリスマスのお祝いをする季節がめぐってきました。
イエス様の降誕をお祝いすることがなければ、南半球のこの季節は、寒くて暗くて心も沈みがちな季節です。でもイエス・キリストを個人的に知らない人たちも、クリスマスを特別な時として、何らかの形でお祝いしています。楽しい時、嬉しい時としてお祝いしています。私たちも、本当に嬉しい時としてお祝いします。“ありがとう”が心の底からこみあげてくる喜びのお祝いです。
信仰生活を積み重ねていく程にクリスマスが身近になり、お祝いする姿勢に本当にこれが原点なのだ、という感謝と感慨が入り混じった思いに満たされます。ほんとうに、ついに、時が満ちて昔から預言されていた救いの主がお生まれになったのです。神様ご自身が私たち人間の世界に降りてきて、住んでくださったのです。神でありながら、人間の弱さや、苦しみを味わって下さいました。そればかりか、神様の方から、人間を責める代わりに、人間のすべての罪をご自分の身に引き受けて下さったのです。その大きな人類救済のご計画は、クリスマス/イエス・キリストの降誕から始まりました。その意味で、クリスマスがすべての始まりであります。
クリスマスによって、人類に光が与えられ、絶望はないことを知りました。自分でどんなにあがいても、もがいても、出口が見つからないような私たちに突破口が与えられました。神様が、私たちと共にいて下さり、私たちの罪の重荷と苦しみを肩代わりするために降りてきてくださいました。神様ご自身が私たちのところに毎日来てくださるからです。


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    桔梗が丘ルーテル教会

    (近畿福音ルーテル桔梗が丘教会)
    牧師 : 屼ノ下 照光
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