5月のみ言葉

悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリスの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 
                       (使徒言行録2章38節)

    
           「ペンテコステ」
 
 今年は5月24日(日)が“聖霊降臨祭・ペンテコステ”です。この日は、クリスマス、イースターとともに教会の大切な祝祭日です。クリスマス、イースターと同じように、ペンテコステにも、「おめでとうございます」と互いに挨拶を交わしたいものです。

 主イエスさまが復活されて50日目(ペンテコステというのは、ギリシア語の50日を意味する言葉)、主イエスさまが約束しておられた“聖霊”が弟子たちのところにおいでくださり、ペトロをはじめとする弟子たちが、復活された主イエスを大胆に宣べ伝え始めました。教会では、この日を、教会が誕生した日として大切にしてきました。そして、何よりも、今、私たちが教会に導かれ、イエス・キリストによる罪の赦しによる救いと、それにともなう生ける希望、喜びが与えられているということを喜ぶ日なのです。この日は、今も聖霊なる神さまが教会のうちに働き、導いていてくださっていること、私たち一人一人にみ言葉を語りかけ、私たちを生かしてくださっていることを感謝する日なのです。そして、聖霊なる神さまは、これからも私たちと私たちの教会を、平和の福音を宣べ伝えるために豊かに用いようとしてくださっているのです。

 聖霊が降った日、使徒ペトロの説教に感動した人々が、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と尋ねました。その問いかけにペトロはこう語りました。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリスの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(使徒言行録2章38節)。わたしたちもまた、この約束の聖霊を受けたのです。それゆえ、こうして導かれ、罪の赦しをいただき、イエス・キリストの教会につながる者とされ、生かされ、導かれてきました。私たちの信仰の歩みは、この聖霊によって導かれてきたのです。私たちそれぞれの信仰の歩みは、それがどのようなものであったとしても、確かに風のように自由に私たちの中を吹き抜けてくださる聖霊によって支えられてきたのです。私自身の信仰の歩みをかえりみるとき、そのことを強く感じます。何ごとにもだらしなく、根気がなく、意志の弱い私が、まがりなりにも牧師として働いてくることができたのは、まさに聖霊なる神さまの御導きによったのです。この聖霊について、あるの本につぎのように記されていました。
 
「聖霊は、暖かい太陽の光のように、わたしたちを天の父の限りない愛で満たし、わたしたちが神の愛する子どもであることを知らせてくれる。また、風が波の上のヨットを移動させていくように、わたしたちが福音に従って生き、イエスの跡をたどるように、わたしたちを動かす。聖霊は、わたしたちから恐れの感情をなくし、言葉や行動を通してキリストの福音を伝えていく勇気を与える」。
 
 今、私たちに語りかけ、働きかけてくださる聖霊なる神さまは、この混乱し、分裂し、憎しみと争いに満ちている世界に対しても、語りかけ、働きかけてくださいます。父であり、御子イエス・キリストであり、聖霊である三位一体の神さまは、この混乱した世界をも、その大きな愛で包み込んでくださっていると、私は信じています。      
                            (牧師 屼ノ下照光)



4月のみ言葉

【4月のみことば】 
イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。(ヨハネ20章15〜16節)


      「名前を呼んでくださる方」
 
 救い主のご復活をお喜び申し上げます。
ある神学者が、「私たちはキリストの復活を信じているのではありません。復活し、生きておられるイエスを信じているのです」と語っています。私たちは、復活された主イエス・キリストが今も生きて私たちに語りかけ、この私の大切な人生を共に歩んでくださっているということに、大きな慰めと平安をおぼえています。

 主がご復活された日の朝、空になった墓の前で戸惑い、途方に暮れて泣いていたマグダラのマリアに、主イエスさまは後ろから近づかれました。涙で彼女にはそれがだれであるかが分かりませんでした。しかし、主イエスさまが、「マリア」と呼びかけられたとき、彼女は、それが懐かしい主であると分かりました。彼女の心は大きな喜びで満たされました。

 主イエスさまご自身が、マリアに声をかけ、名前を呼んでくださいました。名前を呼ぶということは、人と人との関わりにおいてもたいへん大切なことです。私たちは名前を呼ばれることによって、深い親しみや愛を感じることがあります。イザヤ書43章1節で、主なる神さまは、「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな。わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」と語りかけてくださっています。復活の主イエスさまは、今日も、私たちひとりひとりの名前を呼んで、語りかけてくださっています。その呼びかけに対して、「はい、イエスさま」と応える者でありたいと思います。

 マリアは、主イエスさまから名前を呼ばれ、さらに、弟子たちのところへのメッセージを託されました。過去を求めて墓に向かったマリアでしたが、復活の主イエスさまは彼女の目を将来に向けさせてくださいました。彼女は大きな喜びのうちに、弟子たちのところに行って、「わたしは主を見ました」と、喜びのメッセージを伝えました。

 私の罪や挫折は、私の目を過去に向けさせ、私を過去に閉じ込めてしまいます。しかし、復活の主イエスさまは、私の目を将来へと向けさせてくださいます。私の罪は、十字架の主イエス・キリストのあがないによって赦されています。この赦しの中で私は、日々新たに歩み出すことができます。今日というこの日、私は復活の主イエスさまのゆえに、マグダラのマリアと共に、罪赦され、新たにされ、希望と使命が与えられ、喜びの内に生きることが許されているのです。復活の主イエスさまに感謝します。
                            (牧師 屼ノ下照光)

3月のみ言葉♪

【3月のみことば】 
「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」。
                            (競灰螢鵐13章13節)


「苦難と慰め」
 ある牧師が、『コリントの信徒への手紙二』の主題は、“苦難と慰め”であると語っています。この手紙のいたるところに“苦難”という言葉が出てきます。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただく慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです」(1章3〜5節)。私たちの人生の中に苦難が襲ってきます。苦難を経験するということは避けられないことです。苦難に襲われるとき、私たちは、その苦しみが自分だけのものであると感じて、大きな不安の中に落ち込んでしまうことがあります。そして、信仰を与えられていても、「はたして神などおられるのだろうか」との疑いさえ抱くことがあるのです。
 

 パウロのこの手紙を読んでみますと、パウロ自身もコリントの教会も大きな苦難を経験していたことがわかります。その中でパウロは、「あらゆる苦難」のときに確かに慰めを与えてくださる方がある。それは、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父」であると語っています(1章3〜7節)。彼のその確信はこの手紙全体を貫いています。
 

 ドイツに『希望の神学』という本を書いたモルトマンという神学者がいます。彼は少年時代、聖書を手にしたこともなく、信仰とは関わりのない中で育ちました。第二次大戦で、ドイツのハンブルグがイギリス空軍に爆撃されたとき、彼は高校生で招集され、クラスメイトたちと共に高射砲陣地に行かされました。そこで彼が見たものは多くのクラスメイトが空爆でバラバラになって死んでいく姿でした。九死に一生を得た彼は、その苦難の中で、「神はいったいどこにいるのか」という問いを発し続けました。後に彼は捕虜となり、収容所の牧師から聖書をもらい、「神はどこにいるのか」という問いに対する答えを、十字架のイエス・キリストに見出しました。苦しみの真只中にこそ慰めと力があり、十字架の真只中にこそ救いがある、ということを彼は知ったのでした。主イエスの十字架にこそ“救いと慰め”がある、それが彼の『希望の神学』の出発点であったといわれています。
 

 神の独り子イエス・キリストは、十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と叫ばれたほどの苦しみをお受けになりました。ルターは、「ここでは神と神が戦っておられる」と語っています。ここに三位一体の神の神秘が隠されています。御子イエスの苦しみは、父である神ご自身のお苦しみでした。そのことを聖霊なる神は、神の言葉を通して、私たちに語りかけ、慰めてくださるのです。  
                              (牧師 屼ノ下照光)

新年のご挨拶 1月の御言葉

【1月のみことば】 
  「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。
   休ませてあげよう」    (マタイによる福音書 11章28節)


            年を重ねる

 私たちの主の年2015年の新年、あけましておめでとうございます。

 昔、一休禅師は、正月にされこうべを持って、「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」と歌って歩いたと伝えられています。この歌は、人々の浮かれ気分に冷水を浴びせて己が人生を深く見つめさせるという効果はあったかもしれませんが、どうも宗教者としての温かみに欠けるように思います。実際の一休さんを知っているわけではないので何とも言えませんが、ここには、禅宗の僧侶らしく、しっかりと自分で修行して、悟りなさいと言われているような感じを受けます。
 私は、新しい年を迎えるにあたって、私たちの主である神さまが、悟ることもできないでいる、情けないこの小さな私に、どのような恵みを注いでくださるのか、この欠けだらけの私をどのように導いてくださるのか、期待したいと思っています。
 

 私が子どものころは、正月を迎えるたびに「また一つ歳をとった」という表現をしたものです。しかし、歳はとるものではなく、重ねるもの、積み重ねるものだと思います。その積み重ねの中には喜びや楽しさというものが多くあります。しかし、それと同じくらいに、いやそれ以上に、辛さや悲しみ、恥ずかしいこと、しんどいこと、そして罪も積み重なっています。私たちは、そういったものをひとつひとつ積み重ねながら生きています。私の人生の積み重なったところを縦にすぱっと切ったなら、その断面には、さまざまな暗いものがいっぱい見えるだろうと思います。それは、暮れの忘年会で飲んで忘れてしまえるようなものではありません。そして、そのような暗いものもすべてひっくるめて私の大切な人生なのです。
 

 そのような暗く重たい積み重ねを、まるごと引き受けてくださったのが、私たちの主イエス・キリストです。イエス・キリストの十字架は、神が私たちの人生をまるごと引き受けてくださったという出来事なのです。主イエスさまが十字架の上で、私の罪も病も、悲しみも痛みも、苦しみも恥ずかしさも、罪と悔いの涙も、すべてまるごと引き受けてくださり、わたしの歩みを「よし」としてくださっているので、悲しみや辛さ、恥ずかしさに満ちている私の人生も、決して無意味なものではないのです。それゆえ、主イエス・キリストのもとにおいては、いやなことを忘れようと努力する必要はないのです。忘れようとして忘れられないという苦しみを味わう必要はないのです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と主イエスさまは語っておられます。これは、「あなたの人生をまるごとわたしが引き受けよう、まるごと包み込んであげよう」という主イエスさまの約束なのです。疲れをおぼえない、重荷を担っていないなどという人はだれ一人としていません。それゆえ、この主イエスさまの呼びかけと約束は、すべての人に向けられているのです。この年も、この主の呼びかけに応え、この呼びかけに多くの人たちをお誘いする交わりを築いていきたいと願っています。                               
                        (牧師 屼ノ下照光)

12月の御言葉

【12月のみことば】 
「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は
 聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと
 名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。      
               (マタイによる福音書 1章20〜21節)



             男 ヨセフ

 1981年1月30日の夕方、私がアパートに帰ると、臨月の妻からの置手紙があり、一人で重い荷物を持って病院に行ったとのことでした。私はすぐに病院に駆けつけましたが、出産はまだまだということでしたので、アパートに帰りました。翌日の朝、女の赤ちゃんが生まれたとの知らせがあり、すぐに病院に駆けつけました。私の心の中には、娘の誕生という大きな喜びとともに、妻がいちばんたいへんな時に、眠りこけていたという自責の思いがありました。私は、妻の出産にあたって何もできない情けない男でした。
 マリアの夫ヨセフは違いました。婚約中のマリアが妊娠していると知った時、ヨセフは深く悩み、何日もの眠れぬ夜を経験し、悶々としながら、マリアとひそかに離縁する決心をしました。そのとき、夢に天使が現れて彼に語りかけました。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。眠りから覚めたヨセフは、マリアを迎え入れました。婚約中のマリアの妊娠については、ナザレの村や近隣の村の中で、いろいろと噂されたり、中傷の言葉があびせかけられたかもしれません。ヨセフはそれらのすべてを受けとめてマリアの盾となりました。そして、マリアを支えながらナザレからベツレヘムまでの100Kmに及ぶ苦しい旅をしました。厳しい旅の末に、ベツレヘムの家畜小屋での出産という過酷な中で、彼はマリアを守り、労り、励まして、救い主の誕生に立ち会いました。私は、このヨセフの姿に深い感動をおぼえます。
 先の聖書の言葉に続いて、マタイは次のように書き記しています。
 「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる』。この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」。
 神さまは、罪深く、勇気も力もなく、情けない私と共に住まい、私の最も暗い部分に来て共に歩むために、独り子イエスさまを、暗く、冷たく、悪臭のたちこめる家畜小屋で誕生させてくださいました。「神は我々と共におられる」というクリスマスのメッセージを最初に体験したのは、ヨセフとマリアでしたが、クリスマスをお祝いする私たちにも、同じ大きな喜びが与えられているのです。                     (牧師 屼ノ下照光)

11月の御言葉

「死は勝利にのみ込まれた。
 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」
 死のとげは罪であり、罪の力は律法である。私たちの主イエス・キリストによって
 わたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。     
                  (コリントの信徒への手紙一15章54〜56節)



               死は勝利にのみ込まれた
 毎年、11月の第一日曜日は“全聖徒主日召天者記念礼拝”として、特に、すでに神さまのみもとに召された愛する方々をおぼえて礼拝をまもっています。愛する人たちへの親しみの思いは、たとえ死によって分けられたとしても、決してなくなってしまうものではありません。かえって、死によって分けられることにより、強くなるのです。その人たちに対する慕わしさは、時とともにより強くなっていきます。
 私も、召された両親や妹のことをいつも考えます。私の父は、客観的に見て、決して優れた、りっぱな人ではありませんでした。子供として、一緒にいてずいぶん恥ずかしい思いもしたこともありました。しかし、いつも思い出すことは、彼が私に示してくれた深い愛情のこもったさまざまな場面だけです。私たちの愛する人たち、そして、すべての人たちの生命は神さまのものであり、すべての人の人生は神さまの大きな恵みのみ手の中にあります。召天者記念礼拝は、そのことを確認する日でもあるのです。そして、召天者記念の礼拝は、すでにみもとに召された人たちが、私たちに与え、示してくれた美しいものを思い起こし、そのような人たちと深い関わりを与えてくださった神さまに感謝し、神さまをほめたたえる時なのです。

 12年前にノルウェーを訪問した折、印象的なことの一つは、村の小さな教会の周囲がきれいな墓地となっていたということです。芝生がしきつめてあるところに墓石がきれいにならんでいました。写真では見たことがありましたが、実際に見て、愛する者に対する思いというものが伝わってくるように感じました。それは、ほんとうに美しく、そこには復活を信じる信仰と、再び愛する者とあいまみえるという希望のシンボルのようにも思えました。また、礼拝堂の床に、埋葬され、床に鉄のプレートがはめこまれているお墓も見ました。それは礼拝堂の通路にありましたが、一瞬、踏んでいいものかどうかと躊躇しました。いずれにしても、別離のあともなお、近くにいて思い起こしたい、思い出を大切にしたいという召された方々への深い思いがそこにあらわれているように感じました。

 コリントの信徒への手紙一15章では、パウロが主イエス・キリストの復活によって、私たちに大きな希望が与えられているということを語っています。キリストの復活による勝利宣言がここで語られています。キリストは私たちの罪をすべて背負って十字架で死んでくださり、それだけでなく、復活して私たちに永遠の生命の約束をしてくださいました。それだからこそ、私たちは今という時を、希望をもって生きることができるのであると語っています。
 イエス・キリストは私たちすべての者のために、人類すべての者のために、私たちの死の暗黒を背負って十字架へと向かい、復活によって私たちの死に対して、勝利してくださいました。“死”は、キリストの勝利によってのみ込まれてしまいました。キリストは、私たちのうちにある恐れや不安に対して確かに勝利してくださったのです。私たちはこの世の歩のみ中で、さまざまな不安を抱えて生きています。そこで、さまざまな労苦を経験します。しかし、その労苦は、決して無駄ではないと、パウロはこの締めくくりで語っています(15章58節)。
 “死と罪”、“暗黒と虚無”、“不安と恐れ”がこの世を、そして私たちを支配しているような思いにとらわれることがあります。しかし、それらは、私たちの主イエス・キリストによって、すべてのみ込まれてしまっているのです。        
                              (牧師 屼ノ下照光)


10月の御言葉

涙と共に種蒔く人は
喜びの歌と共に刈りいれる。
種を背負い、泣きながら出て行った人は
束ねた歩を背負い、喜びの歌を歌いながら帰ってくる。
                 (詩編 126章 5〜6節)

喜びの収穫

 収穫の秋ですね。もう、刈り入れも終わったころでしょうか。岐阜県高山市郊外の農村で生まれ育った私は、黄金色に輝く刈り入れ前の田んぼを見るのが大好きです。また、刈り入れ後の田んぼの匂いも好きです。子どもの頃、ひんやりとした朝霧の中を、親戚、家族そろって、山の田んぼに刈り入れに出かけた日のことを思い出します。朝早く母親たちは、かまどで炊いたご飯を御櫃に入れ、大きな鍋で煮ものを作り、それを荷車にのせて田んぼに出かけました。今のようにコンバインなどない時でしたから、大人たちは皆、腰をかがめて稲を刈り、束ねていきました。私たち子どもたちは、その稲束を背負って、荷車の置いてあるところまで運びました。お昼は草の上に輪になって、家から持ってきたごはんを食べました。子どもたちにとって、それはピクニックのような楽しさでした。遊園地や行楽地に行くという楽しみはありませんでしたが、家族そろっての刈り入れは、大きな喜びの時でした。そして、刈り入れが終わると、夕焼け空を背に、荷車にいっぱい稲束を積んで帰りました。その風景を思い出すと、なんとも懐かしい気持ちになります。先日、車を走らせている時、田んぼに稲束が稲架(ハサ)にかけられているのを見かけました。最近ではほとんど見られなくなったその光景に、なんだか胸の奥が熱くなるのを感じました。
 
 詩編126編を読むとき、私はいつも子どもの頃のその懐かしい風景を思い出すのです。この詩編は、50年以上のバビロン捕囚の苦しみから解放された人々の喜びが歌われています。苦しみの後の大きな喜びが、刈り入れの喜びとして歌われています。苦しみの中で、泣きながら、涙と共に種を蒔いた者たちに、主なる神さまは、確かに喜びの収穫を与えてくださると歌われています。そして、ここで語られている「種をまく」ということが、み言葉の種をまくとうい伝道の働きととらえられて、教会では、福音宣教の労苦と、確かな収穫の喜びを歌ったものとして親しまれてきました。今日、福音宣教の働きは決して簡単なことではありません。しかし、神さまは、ご自身の大きな恵み、私たち人間に対する愛によって、確かに、大きな喜びの収穫を約束してくださっているのです。
                            (牧師 屼ノ下照光)
  

今月の御言葉

【9月のみことば】
「しかし、あなたは、健全な教えに適うことを語りなさい。年老いた男には、
 節制し、品位を保ち、分別があり、信仰と愛と忍耐の点で健全であるように
 勧めなさい」                (テトス 2章 1〜2節)


敬老の交わり礼拝

私たちの教会では、毎年9月に、“敬老の交わり礼拝”を執り行ってきました。今年は9月7日(日)に執り行います。多くのご高齢の方々と共に、この日を喜び、神さまへの感謝と賛美のときにしたいと思います。以前は、65歳が対象者でしたが、その後70歳になり、今は75歳になっています。教会によっては、80歳というところもあるようです。まさに“高齢化時代”を象徴していると思います。

私も63歳となり、高齢者の仲間入りしつつあります。さまざまな場面や肉体の変化によっで、自分が“老い”に向かっていることを実感しています。“老い”への準備が必要であると感じています。パウロは、若い牧師テトスに、「あなたは、健全な教えに適うことを語りなさい。年老いた男には、節制し、品位を保ち、分別があり、信仰と愛と忍耐の点で健全であるように勧めなさい」と語っています。年を重ねれば、自然と人格が完成に向かい、落ち着いて、円満になるというわけではありません。かえって、偏屈になったり、頑固になったり、人の言葉に耳を傾けることができなくなるということもあるのです。先日も83歳のストーカーというびっくりするようなニュースが報道されていました。私も、どのような老人になるのだろうかと、今から心配しています。だからこそ、み言葉によって、節制、分別が備わり、信仰と愛と忍耐が増すようにと勧められなければならないと、自戒をこめて、自らに言い聞かせています。また、主なる神さまの深い憐みと御導きを祈り求めています。

鍋谷堯爾先生の『老いること、死ぬこと』という本の中に、こんな話が紹介されていました。スイスの精神科医のポール・トゥルニエが、「いつまでも若くしていることのできる秘訣を聞かせてほしい」と頼まれた時、彼は、自分の人生には何度も転換期があったが、そのたびに新しく生きなおし、その再出発が若さをあたえてくれたのだ、と言っているそうです。そして、鍋谷師は、「歯が悪くなっても、入れ歯をしたら新しい人生です。ガンになっても、手術がうまくいったら、それからは新しいいのちです。前の続きで生きるのではありません。死ぬことも、クリスチャンにとっては終わりでなく、新しい出発です。こうして最後まで私たちは若さを維持できるのです。若くあるために転換期をもちましょう」と書いておられます。そして、さらに、「心が愛に向かうことが真の新しい出発だと、トゥルニエは言っています。この点についてジミー・カーターも、シンプルなことの追求、すなわち、自分の幸せ、平和、喜び、満足、そして他の人の幸せと満足を喜ぶ愛の追求こそ、年齢に関係なく、人を真に生かすものだと言っています」と書いておられます。
「私のうちに、信仰と愛と忍耐を健全に増し加えてください」というのが、私の祈りです。
                              (牧師 屼ノ下照光)

8月の御言葉

「剣を鋤に、槍を鎌に」

主は多くの民の争いをさばき
はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げずもはや戦うことを学ばない。  
                (ミカ書4章3節)

桔梗が丘ルーテル教会では、毎年8月に、“平和の主日礼拝”をまもってきました。今年も、8月3日(日)に、出席者の皆さんと共に、このたいせつな世界の平和のためにお祈りしました。“平和の主日礼拝”では毎年、先にあげた預言者ミカの言葉を必ず朗読してきました。ニューヨークの国連本部の入り口にも刻まれているという、この聖書のみ言葉を聞くたびに、私はいいしれない感動をおぼえるのです。

ある年のテレビのニュースで広島の原爆記念日のようすが報じられていました。その中で、広島にある“平和記念聖堂”というカトリック教会が紹介されていました。その教会にある“鐘”はドイツから贈られたものであり、その鐘は武器を打ち直して作られたものであると紹介されていました。その鐘を造った人たちのうちには、このミカの言葉があったものと思われます。

預言者が語るこの世界平和は、単なる理想なのでしょうか。ただの夢物語なのでしょうか。ここには気休めが語られているのでしょうか。そうではありません。彼はここで、神に遣わされた預言者として、神の約束の言葉を告げているのです。私たちは、預言者が告げたこの神の言葉を真剣に受け止めなければなりません。平和を願っておられる神の思い、その御心は、その独り子主イエス・キリストをこの世界に与えてくださったという恵みの中に表されています。

 主イエスさまは、「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5章9節)と教えてくださり、ご自身“和解の供物”として十字架の上で血を流し、神と私たちとの間の和解、平和を確立してくださいました。主イエスさまは、「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26章52節)と語られました。主イエスさまは、預言者が語った“神による平和”、「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」平和、「国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」という平和を目指しておられるのです。私たちキリスト者は、主イエスさまの十字架によって買い戻され、神さまのものとされた者として、平和をめざして生きる者です。

敗戦後、私たちの国、日本は、憲法第9条を手に入れ、まさに“剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする”ことを誓い、平和への道を歩みはじめました。しかし、今日、私たちの国は、政府が推し進めようとしている“集団的自衛権”の問題に見られるように、ますます軍事的な緊張が高まっているのが現実です。

そのような私たちの社会に向かって、「主の山に登り、ヤコブの家に行こう、主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう。主の光の中を歩もう」(ミカ4章2節)と預言者と共に語り続けなければなりません。また、神は、人の命を奪い、傷つける武器を必要としておられないということを、語り続けていかなければなりません。私自身は、戦争と人を殺傷する武器の放棄を謳った憲法第9条は、何としても護らなければならないと考えています。

それと同時に。私たちの、この私の心の内にある“剣”、“槍”を神によって打ち直していただくことを目ざしていかなければなりません。それには、預言者が語るように、絶えざる“悔い改め”と“神の言葉”を聞くことが必要なのです。まず、私たち自身、常に「神の家に行き」、主の道を示していただき、主の道を歩むことが必要なのです。

7月のみことば

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現われ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。  (フィリピ 2章 6〜11節)

イエス・キリストは主である

「イエス・キリストこそ、私の主である」というのは、私たちキリスト者の信仰の基本
であり、私自身を支える土台であり、私の人生のすべてを支える土台です。
 

『親分はイエス様』という映画がありました。ヤクザだった人たちが、キリストに
捕らえられ、キリスト者となり伝道者として歩む物語ですが、実話です。
親分のためには人を傷つけたり、殺したり、親分に代わって罪をかぶったりしていた
彼らが、ほんとうに彼らを愛し、赦し、大切にしてくださる主イエスに出会ったとき、
命をかけることができるほんとうの親分、主イエスに出会ったのでした。
彼らは、「イエス・キリストは主である」という恵みの中に、ほんとうの安らぎと
救いを見いだしたのでした。
 

 イエス・キリストは、神の独り子、神ご自身であられますが、神であることに
固執しようとはされず、人間の姿をとって最も惨めな十字架の死に向かわれました。
それは私たちの救いのためでした。罪と死に捕らえられている私たちを神のもとに
取り戻すためでした。私たちのために徹底的に仕える者、奴隷となって十字架へと
向かわれた方、この方こそ、私たちの“主”であるとパウロは語っているのです。
徹底的にご自身を低くして、僕となって、十字架の上で惨めで情けない姿をさらされた、
これが私たちの主であります。マルコ8章には主イエスさまが弟子たちに、
「あなたがたは、わたしを何者だと言うのか」と問いかけておられますが、
この問いに対して、私たちは、「僕の姿をとって十字架に向かわれたイエスさまこそ、
私の主、救い主です」と答えるのです。

 私たちは、十字架の主イエスを「この方こそ、わたしの主である」と告白する者です。
そして、この方の前にひざまずく者です。今のこの時代において、十字架にあらわされた
福音を宣べ伝えるということは、決して容易なことではありません。
むしろ非常に困難なことです。しかし、神さまは44年前にこの地に教会を建て、
一人一人の兄弟姉妹たちを呼び集めてくださいました。それは、恵みによって呼び集め
られた者が、「イエス・キリストは主である」と告白して、神をたたえるためでした。
これまでの教会の歩みと同じように、このところにおいて、教会に呼び集められた
私たちが、イエス・キリストを主と仰ぎ、十字架の主イエスさまの前にひざまずいて
礼拝をまもり続けること、それこそが、最も大切なことであり、それこそが最も大きな
証しとなるのです。                  
                            (牧師 屼ノ下照光)


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    桔梗が丘ルーテル教会

    (近畿福音ルーテル桔梗が丘教会)
    牧師 : 屼ノ下 照光
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    桔梗が丘ルーテル教会
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